二十歳の原点 高野悦子
高野悦子さんのことを色々研究しておられる方が多い。
その方々からメールやコメントをいただいた。まだ知っていることがあったら教えて欲しいと。
私は立命館大学の出身。彼女とは学部が違うけれど同じ学年だ。
そして、偶然同じホテルのビヤガーデンでたまたまアルバイトをしていた。アルバイトの期間はそれほど長くなかったし、個人的な会話もそんなにしていない。
だから、記憶もおぼろげになりつつある今、あまり書くこともないのだけれど、少しでもどなたかの参考になればと思って思いつくままにこれを書く。
彼女が亡くなったという電話を最初に受け取ったのは、私。(日にちは定かではない。亡くなったその日だったか)
警察からこのような人がアルバイトしているかとの問い合わせがあって、ビヤガーデンの責任者に取り次いだ。電話が終わって、彼の口からみんなに伝えられた。電話はバックルームにあって、厨房と皿洗い場を兼ねた場所にあった。時刻は、ビヤガーデンがオープンして間もなく。
バイトは、社会人の女性が一人、定時制に通う女子高校生一人、他は大学生だった。
男は、立命館、同志社、京都、龍谷、京都産業などで立命館が5人で一番多かった。
女は、上述を除くと京都外語、同志社か同志社女子大、京都女子短大など短大が多かった。立命館は高野さんだけ。
男性も女性もみんなまじめだった。。特に女性は、深窓の令嬢とか良家の子女とでも言って良いような女性が多かった。京都国際ホテル(当時のシティーホテルといえば、他には都ホテル、京都ホテルか)のアルバイトと言うことで家族も許してくれたのだろう。きっちりした採用面接があったのだ。
一人は大阪万国博のあるパビリオンのコンパニオンに採用された。
私たち立命館男性3人組は夏休みを信州で過ごすため、途中で辞めている。したがって、辞めた後の構成がどうなったかはわからない。
当時は冷房があまり普及していなかったので、勉強する学生は信州の学生村に行った。人まねの好きなgakkokamenももちろん行った。但し、あんまり涼しいので昼も夜もぐっすり眠った。
女性の制服はオレンジ色のワンピースに白いエプロン。
男性は濃いブルーのシャツに黒いズボン。私たちは学生ズボンで代用した。(訂正あり。コメント欄参照)
バックルームで男性が交代で皿洗い。
また、そこには交代でコックが詰めていた。
大きなジャーにスパゲッティーが入っていた。生ハムもあらかじめ皿に盛ってメインの厨房から運び込まれていた。
ビヤガーデンの中程には、イルミネーションがあって、それをバックにダンスを踊るカップルもいた。
(次の<< >>は一緒にバイトした立命館男性三人組の一人Aの話)
<< 自殺する直前のバイトの日、彼女は夜8時10分前ごろ、皿洗い場前のエレベータから出てきた。
バイトは夕方から始まり、いつも最初に出会ったときは「おはよう。」と挨拶した。皿洗いをしていた私はその日まだ挨拶をした記憶がなかったので、「今日、初めからいた?」と聞いたら、「ううん。」と答えて中に入っていった。そのときの様子が一人でうつむきかげんで、どことなく元気がなさそうだったのが気になったが、普段から、ちょっと話をするだけだったので、そのまま、話もしなかった。次の日、自殺をしたと聞き、そうだったのかと思った。
ビヤガーデンではレコードを流していた。シャンソンの「枯葉」の入っているLPと歌謡曲の「ブルーライト横浜」が入っているLP、それと「京都神戸横浜」の入っているLPの3枚を気づいた者が流していた。私は歌謡曲の二枚が好きで交互にかけていた。彼女は「枯葉」のLPを流した。彼女に、「夏のビヤガーデンで秋の寂しい曲を流すのは場所に合わないから、『枯葉』はかけないほうが良い。」と言った。しかし彼女は機会があれば、そのLPをかけていた。>>
(20.8.15追記)先日、札幌で、一緒にアルバイトをした友人Bに確認してきた。
高野さんは、あの前日、自殺するように見えたかとの問いに、
彼はそのようには見えなかったと断言した。
私たち三人組の結論。
そのようには見えなかった。
客の入りが多かったときなど、たまに残り物で慰労会を開いてくれることがあった。
あの夜も、多分そうだったと思う。
彼女は椅子にゆったりと腰掛けて、ほほえみながらバイト仲間のFからもらったロングピースをうまそうにくゆらしていた。
あの時の笑顔ははっきりと覚えている。
Bはまた、彼女のことを色白で目のくるりとしたお人形さんのように可愛い女性だったと言っていた。
彼女は口数が少なくいつもおとなしかった。あまりみんなと馴染むことはなかった。
私たちも彼女が学生運動に関わっていることを知っていて、何となく近寄りがたかった。
アルバイトの賃金は時給150円。それに夕食がついた。ご飯とみそ汁と漬け物とおかず。貧乏学生にとっては大助かりの好条件だった。
市電は入学時(昭和42年)が15円、昭和47年頃は25円。生協のラーメンが45円、定食55円というのもあった。入学式の時のこの定食は鯖の塩焼き、ニンジンとダイコンのなます。式について来た父がえらく気に入っていしまって、毎日これにしろ、と言った。下宿の近くの食堂は120円の定食。鯖の塩焼き、茶碗蒸しなどがついた。ラーメンが70円だったから仕送りが来ると100円札二枚を持って行き、定食とラーメンで腹一杯になって帰ってきたものだった。
当時の立命館は、広小路と衣笠にキャンパスがあった。
総長は末川博氏。高名な民法学者だった。岩波書店の六法全書を編集された。
大学の運営に学生も参加させる(全学協議会)体制を構築し、立命館民主主義と呼ばれた。
学生との団交でもほほえみを絶やさず、学生を慈しみをもって見ていた。
広小路には、法学部、文学部、少し離れて産業社会学部があった。
本にもある中川会館は広小路キャンパスの中にあった。教室はなくて、事務、管理部門が入っていた。
文字通り猫の額ほどのキャンパスだったが、かえっていいこともあった。
体育は京都御所の中のグランドでソフトボールをやったし、バレーボールは鴨川の土手のコートだった。
休み時間にはキャンパスの直ぐ西隣にある京都御所の芝生で休んだ。
通りを隔てて向には京都府立医科大学があった。フォーク・クルセダーズの北山修氏が白衣で歩いている姿をたまに見かけた。
当時、立命館の日本史学は、立命館史学と呼ばれ異彩を放っていた。
日本史学会の重鎮林屋辰三郎、北山茂夫、奈良本辰也といったそうそうたる教授ががいた。哲学では梅原猛教授。
二十歳の原点文庫版p20の北山さんは北山茂夫教授。相前後して林屋、奈良本、梅原の各教授が辞任した。
同書p106に「立命みたいな三流大学うんぬん」と言われたとあるが、当時は「立ちゃん、同やん」「結婚するなら京大生、恋愛するなら同大生、用心棒なら立命館」なんて言われていたらしい。(らしいと言うのは面と向かって言う人がいなかったから)。
しかし、一部の京都人がからかう割には、純粋な京都出身者は少なかった。高野さん同様、地方のいわゆる名門校、進学校の出身者が多かったし、国立大学を2浪3浪したすえに入学する者もいた。
当時の立命館の授業料は、私立大学では特別な例を除いておそらく一番安かったはず。だから、アルバイトと奨学金だけで勉学に励んだ人、一度就職してお金を貯めて入学してきた人など経済的にあまり恵まれない人も多かった。そんな中から司法試験に合格する人がいた。
授業料の安い割に、講師陣は充実していた。自前の教授陣が多くない分、他大学から臨時講師として招聘していたのだ。なんと京大のあの森毅先生が一般教養数学の講師だった。
今、大学コンソーシアム京都が行っていることを立命館の学生やOBはその頃からやっていた。京大の講義にもぐったり、京大の教授に頼みに行ってゼミに入れてもらったり。講義では京大、阪大、名古屋大などのすごい先生が教鞭を執っていた。
学生を大事にしてくれた大学だったと今でも思っている。
彼女が大学のキャンパスでジグザグデモをしている姿を見たことがある。色白でメリハリのある顔立ちの彼女は、スポットライトでも当たったかのように目立ってはっきりと見えた。
何を訴えていたのだろうか。
彼女は自殺するようには見えなかった。
彼女を最後に見たその夜、うまそうにロングピースをくゆらし、穏やかにほほえみを浮かべていた。
上記Aにも確認したが、彼女がたばこを吸っていたのは、自殺の前夜。仕事が終わって一休みした時だ。
あの彼女の姿を見て、いったい誰が自殺すると思っただろうか。
もし、そのような兆候が見られたら、バイト仲間には男も女も人のいい連中が一杯いたから、お節介と言われようとなんらかの手を打ったに違いない。
その後の彼女の行動はわからない。
どんな理由で自殺するかなんて誰にもわからない。
あんまり関係ないけれど、これも何かの参考になれば
京都地方気象台の観測によれば、23日の降水量は7.5ミリ、一日のこれくらいの降水量で、この日の天気を「雨」というだろうか。「曇」あるいは「曇時々雨」くらいが妥当ではないだろうか。24日は観測が記録されていない。もちろんこれは気象台が置かれている地域での観測だから、広い京都市内のこと、雨が降っていたポイントが全くなかったとは言い切れまい。しかし、大雨というのは考えにくい。
終わりに
朝日ジャーナルの記事を探しに行ってきたが、とうとう探すことができなかった。
もうそろそろ私の二十歳の原点を終えることにする。
お願い
このブログを当時のアルバイトの仲間が読んでいるような気がするのです。
どうぞコメントしてください。
追記(20.8.15)
どこかで、この記事が他殺をにおわせていると書いている人がいるらしいが、そんなつもりは毛頭ない。少なくとも私たち(立命館男性三人組)が知る限り、自殺の前夜、彼女は死にたいと言っていなかったし、そのような行動をとるように見えなかったと言っているだけだ。
追記(24.6.18)
河原町今出川下ルにブリキの鍋で湯豆腐を食べさせる「金八」という飲み屋があったという。
そこからほど近い立命館大学の出町南寮の寮生たちがここで高野悦子さんの姿を見かけたものだそうだ。
彼女は小柄で色白、お人形さんの様な顔立ちだったから目立ったことだろう。
http://blog.honyomi.jp/201111/article_2.html
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私は立命館大学の出身。彼女とは学部が違うけれど同じ学年だ。
そして、偶然同じホテルのビヤガーデンでたまたまアルバイトをしていた。アルバイトの期間はそれほど長くなかったし、個人的な会話もそんなにしていない。
だから、記憶もおぼろげになりつつある今、あまり書くこともないのだけれど、少しでもどなたかの参考になればと思って思いつくままにこれを書く。
彼女が亡くなったという電話を最初に受け取ったのは、私。(日にちは定かではない。亡くなったその日だったか)
警察からこのような人がアルバイトしているかとの問い合わせがあって、ビヤガーデンの責任者に取り次いだ。電話が終わって、彼の口からみんなに伝えられた。電話はバックルームにあって、厨房と皿洗い場を兼ねた場所にあった。時刻は、ビヤガーデンがオープンして間もなく。
バイトは、社会人の女性が一人、定時制に通う女子高校生一人、他は大学生だった。
男は、立命館、同志社、京都、龍谷、京都産業などで立命館が5人で一番多かった。
女は、上述を除くと京都外語、同志社か同志社女子大、京都女子短大など短大が多かった。立命館は高野さんだけ。
男性も女性もみんなまじめだった。。特に女性は、深窓の令嬢とか良家の子女とでも言って良いような女性が多かった。京都国際ホテル(当時のシティーホテルといえば、他には都ホテル、京都ホテルか)のアルバイトと言うことで家族も許してくれたのだろう。きっちりした採用面接があったのだ。
一人は大阪万国博のあるパビリオンのコンパニオンに採用された。
私たち立命館男性3人組は夏休みを信州で過ごすため、途中で辞めている。したがって、辞めた後の構成がどうなったかはわからない。
当時は冷房があまり普及していなかったので、勉強する学生は信州の学生村に行った。人まねの好きなgakkokamenももちろん行った。但し、あんまり涼しいので昼も夜もぐっすり眠った。
女性の制服はオレンジ色のワンピースに白いエプロン。
男性は濃いブルーのシャツに黒いズボン。私たちは学生ズボンで代用した。(訂正あり。コメント欄参照)
バックルームで男性が交代で皿洗い。
また、そこには交代でコックが詰めていた。
大きなジャーにスパゲッティーが入っていた。生ハムもあらかじめ皿に盛ってメインの厨房から運び込まれていた。
ビヤガーデンの中程には、イルミネーションがあって、それをバックにダンスを踊るカップルもいた。
(次の<< >>は一緒にバイトした立命館男性三人組の一人Aの話)
<< 自殺する直前のバイトの日、彼女は夜8時10分前ごろ、皿洗い場前のエレベータから出てきた。
バイトは夕方から始まり、いつも最初に出会ったときは「おはよう。」と挨拶した。皿洗いをしていた私はその日まだ挨拶をした記憶がなかったので、「今日、初めからいた?」と聞いたら、「ううん。」と答えて中に入っていった。そのときの様子が一人でうつむきかげんで、どことなく元気がなさそうだったのが気になったが、普段から、ちょっと話をするだけだったので、そのまま、話もしなかった。次の日、自殺をしたと聞き、そうだったのかと思った。
ビヤガーデンではレコードを流していた。シャンソンの「枯葉」の入っているLPと歌謡曲の「ブルーライト横浜」が入っているLP、それと「京都神戸横浜」の入っているLPの3枚を気づいた者が流していた。私は歌謡曲の二枚が好きで交互にかけていた。彼女は「枯葉」のLPを流した。彼女に、「夏のビヤガーデンで秋の寂しい曲を流すのは場所に合わないから、『枯葉』はかけないほうが良い。」と言った。しかし彼女は機会があれば、そのLPをかけていた。>>
(20.8.15追記)先日、札幌で、一緒にアルバイトをした友人Bに確認してきた。
高野さんは、あの前日、自殺するように見えたかとの問いに、
彼はそのようには見えなかったと断言した。
私たち三人組の結論。
そのようには見えなかった。
客の入りが多かったときなど、たまに残り物で慰労会を開いてくれることがあった。
あの夜も、多分そうだったと思う。
彼女は椅子にゆったりと腰掛けて、ほほえみながらバイト仲間のFからもらったロングピースをうまそうにくゆらしていた。
あの時の笑顔ははっきりと覚えている。
Bはまた、彼女のことを色白で目のくるりとしたお人形さんのように可愛い女性だったと言っていた。
彼女は口数が少なくいつもおとなしかった。あまりみんなと馴染むことはなかった。
私たちも彼女が学生運動に関わっていることを知っていて、何となく近寄りがたかった。
アルバイトの賃金は時給150円。それに夕食がついた。ご飯とみそ汁と漬け物とおかず。貧乏学生にとっては大助かりの好条件だった。
市電は入学時(昭和42年)が15円、昭和47年頃は25円。生協のラーメンが45円、定食55円というのもあった。入学式の時のこの定食は鯖の塩焼き、ニンジンとダイコンのなます。式について来た父がえらく気に入っていしまって、毎日これにしろ、と言った。下宿の近くの食堂は120円の定食。鯖の塩焼き、茶碗蒸しなどがついた。ラーメンが70円だったから仕送りが来ると100円札二枚を持って行き、定食とラーメンで腹一杯になって帰ってきたものだった。
当時の立命館は、広小路と衣笠にキャンパスがあった。
総長は末川博氏。高名な民法学者だった。岩波書店の六法全書を編集された。
大学の運営に学生も参加させる(全学協議会)体制を構築し、立命館民主主義と呼ばれた。
学生との団交でもほほえみを絶やさず、学生を慈しみをもって見ていた。
広小路には、法学部、文学部、少し離れて産業社会学部があった。
本にもある中川会館は広小路キャンパスの中にあった。教室はなくて、事務、管理部門が入っていた。
文字通り猫の額ほどのキャンパスだったが、かえっていいこともあった。
体育は京都御所の中のグランドでソフトボールをやったし、バレーボールは鴨川の土手のコートだった。
休み時間にはキャンパスの直ぐ西隣にある京都御所の芝生で休んだ。
通りを隔てて向には京都府立医科大学があった。フォーク・クルセダーズの北山修氏が白衣で歩いている姿をたまに見かけた。
当時、立命館の日本史学は、立命館史学と呼ばれ異彩を放っていた。
日本史学会の重鎮林屋辰三郎、北山茂夫、奈良本辰也といったそうそうたる教授ががいた。哲学では梅原猛教授。
二十歳の原点文庫版p20の北山さんは北山茂夫教授。相前後して林屋、奈良本、梅原の各教授が辞任した。
同書p106に「立命みたいな三流大学うんぬん」と言われたとあるが、当時は「立ちゃん、同やん」「結婚するなら京大生、恋愛するなら同大生、用心棒なら立命館」なんて言われていたらしい。(らしいと言うのは面と向かって言う人がいなかったから)。
しかし、一部の京都人がからかう割には、純粋な京都出身者は少なかった。高野さん同様、地方のいわゆる名門校、進学校の出身者が多かったし、国立大学を2浪3浪したすえに入学する者もいた。
当時の立命館の授業料は、私立大学では特別な例を除いておそらく一番安かったはず。だから、アルバイトと奨学金だけで勉学に励んだ人、一度就職してお金を貯めて入学してきた人など経済的にあまり恵まれない人も多かった。そんな中から司法試験に合格する人がいた。
授業料の安い割に、講師陣は充実していた。自前の教授陣が多くない分、他大学から臨時講師として招聘していたのだ。なんと京大のあの森毅先生が一般教養数学の講師だった。
今、大学コンソーシアム京都が行っていることを立命館の学生やOBはその頃からやっていた。京大の講義にもぐったり、京大の教授に頼みに行ってゼミに入れてもらったり。講義では京大、阪大、名古屋大などのすごい先生が教鞭を執っていた。
学生を大事にしてくれた大学だったと今でも思っている。
彼女が大学のキャンパスでジグザグデモをしている姿を見たことがある。色白でメリハリのある顔立ちの彼女は、スポットライトでも当たったかのように目立ってはっきりと見えた。
何を訴えていたのだろうか。
彼女は自殺するようには見えなかった。
彼女を最後に見たその夜、うまそうにロングピースをくゆらし、穏やかにほほえみを浮かべていた。
上記Aにも確認したが、彼女がたばこを吸っていたのは、自殺の前夜。仕事が終わって一休みした時だ。
あの彼女の姿を見て、いったい誰が自殺すると思っただろうか。
もし、そのような兆候が見られたら、バイト仲間には男も女も人のいい連中が一杯いたから、お節介と言われようとなんらかの手を打ったに違いない。
その後の彼女の行動はわからない。
どんな理由で自殺するかなんて誰にもわからない。
あんまり関係ないけれど、これも何かの参考になれば
京都地方気象台の観測によれば、23日の降水量は7.5ミリ、一日のこれくらいの降水量で、この日の天気を「雨」というだろうか。「曇」あるいは「曇時々雨」くらいが妥当ではないだろうか。24日は観測が記録されていない。もちろんこれは気象台が置かれている地域での観測だから、広い京都市内のこと、雨が降っていたポイントが全くなかったとは言い切れまい。しかし、大雨というのは考えにくい。
終わりに
朝日ジャーナルの記事を探しに行ってきたが、とうとう探すことができなかった。
もうそろそろ私の二十歳の原点を終えることにする。
お願い
このブログを当時のアルバイトの仲間が読んでいるような気がするのです。
どうぞコメントしてください。
追記(20.8.15)
どこかで、この記事が他殺をにおわせていると書いている人がいるらしいが、そんなつもりは毛頭ない。少なくとも私たち(立命館男性三人組)が知る限り、自殺の前夜、彼女は死にたいと言っていなかったし、そのような行動をとるように見えなかったと言っているだけだ。
追記(24.6.18)
河原町今出川下ルにブリキの鍋で湯豆腐を食べさせる「金八」という飲み屋があったという。
そこからほど近い立命館大学の出町南寮の寮生たちがここで高野悦子さんの姿を見かけたものだそうだ。
彼女は小柄で色白、お人形さんの様な顔立ちだったから目立ったことだろう。
http://blog.honyomi.jp/201111/article_2.html
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この記事へのコメント
gakkokamenさんがかつてこれでおわり、というようなことをおっしゃっていたので、高野悦子さんのことを聞くのは諦めていました。
二十歳の原点、序章、ノートの三作は読むたびにあの鋭さに共鳴した心が疲労困憊。
かつて似たような思いは持っていましたが、生きていくのに辛いので、私は楽な道を選びました。こんな生き方をしていたら身がもたないと。自分に甘い私には、逃げ場がありました。
gakkokamenさんから高野さんのことを聞くたびに、彼女は生きていたのだということを今知ったような気持ちになるのは何故だろうと考えて、私は、彼女の言葉で描くその心にしか触れていなかったからだときがつきました。
gakkokamenさんの言葉から高野さんをしることで、彼女が実体を持ちました。激した想いが心になだれ込んでくるのではなく、一人の女性が語りかけてくるように感じるようになったんです。気が向いたとき、そしてまた語りたくなったとき、gakkokamenさんからみた高野悦子さんをまた、教えてください。
もうこれでおしまいにしようと思ったのは、書くことがほとんどなかったからです。
幸い3人組の一人Aから貴重なエピソードが寄せられました。私が知らなかったことです。
これからも何か思い出すたびにこの記事に付け加えていきます。
コメントをありがとうございます。
何度も書くように、私は彼女の喫煙をはっきり覚えていて、その情景からは”死”を予想することができませんでした。
また、労働運動と学生運動の連帯については私はよくわかりません。
その頃彼女がどんなことを考え、どんな人とつきあっていたのか私にはまったくわからないことだらけです。
率直に言って、今でも多くの人がこの本を読んでおられることに驚いています。
天気ですが、雨は降っていなかったと思います。ただ、国際ホテルのビヤガーデンには一部簡単なビニール製の屋根がかかっていたので、少しの雨であれば支障がありませんでした。
今、Aから電話がありました。その日はいい天気だったそうです。
本文にもあるように、どことなく元気がなさそうだったり、それまで人前でたばこを吸うことがなかったのにその日は吸ったので、少しおかしいな、と思ったそうです。しかし、自殺するようには見えなかったそうです。
さて、その日は小雨とのことですが、私には雨の印象はありません。屋根があったからあまり印象に残っていないのかも知れません。Aのいうとおり晴だったかも知れません。
私も記憶はおぼろげになってきています。3人組の後一人Bとも先ほど電話で話しました。残念ながら彼はその日のことをほとんど覚えていないと言うことでした。
Aは、もし自殺するなら営業開始時間からしばらく経つ8時10分前頃になって出てくるだろうかと言っています。
私も同感です。
私たちが喫煙する彼女を見たのは、9時30分頃から10時30分頃まで、自殺するようには見えませんでした。
しかし、人が死を意識する時、時間は何の関係もありません。たった30分の間に生の意欲をなくすことがあっても何の不思議はないと今は思っています。
結構ですよ。あなたが満足するまでおつきあいします。
中村さんいつ亡くなったのですか。二十歳の原点出版後も藤田観光で働いていたのでしょうか。
悦子さんの面識もなく、23日の情報も持っていないので、こんなコメントをする資格はないのですが。悦子さんは、覚悟して外出したのではないんじゃないか。「チョット外出してきます」と声を掛け、外出しています。部屋に戻るつもりだったのではないでしょうか。貨物列車が近づいた瞬間と悦子さんの感情のや思考の起伏が重なってしまったのではないでしょうか。突発的だった、魔がさしたのではないでしょうか。しかし真実は判りません。
1 私の住まいと彼女の問題と何の関係があるのでしょう。
2 京都府警刑事部長楊枝さんをモデルにした映画についてまったく知りません。
3 「20歳の原点」の映画は知りませんでした。彼女のお母様が文藝春秋に寄稿されたのを拝見して、グーグルで検索、その時初めてそのような映画があることを知りました。
4 24日の夜9時半過ぎの天気はどうだったでしょうか。
でも、記憶違いかも知れない。
私もあなたの説を支持します。
団塊世代ベンチ組様へ
ところであなた自身は、23日の夜11時過ぎに彼女には会っていないのですね。あなたの11時過ぎの話というのはすべて伝聞ですね。自分の実体験と伝聞はきちんと分ける必要があります。Uさんとあなたが同じことを言ったとしても、その資料的価値は違うと思います。Uさんは実体験、あなたは伝聞。これからこの問題を研究する人のためにもこのことは明確にしておきたいと思います。
悪気はありません。お気に障ったらごめんなさい。
彼女のお父様は県職員でしたか。ただ私は何かでお父様が某国立大学の講師と記憶していたのです。あるいは関係者の一人かと。私の記憶違いですかね。
写真が見つかりました。
女性の制服は間違いありません。オレンジ色のワンピースに白いエプロン。
男性は二つあります。一つは白い半袖シャツに黒の蝶ネクタイ。もう一つはアロハシャツ。青地に白い模様が入っています。
屋根はビニール製ではありません。
トタンか薄い鉄板のような感じです。
Aも記憶がないと言っています。
24日の天気のことをお聞きしたのは、警察からの電話を受けた時、雨は降っていなかった、しかし帰る時は小雨が降っていた、と記憶しているからです。私たちは小雨の中を彼女の思い出を話ながら歩いたような気がするからです。あなたがもし小雨であったとおっしゃるなら、この部分の私の記憶も一応正確だったと推定されることになります。
天候のことはこの程度にしておきましょう。研究される方が私たちのこの証言と気象庁などの公的機関に残されたデータを比較検証し、同定してくれるでしょう。私はそれで十分です。
さて、私はあなたにあなた個人のブログの開設をお勧めします。そこで存分にあなたの経験や意見を公開してください。
多くの読者の皆様
私はこの記事及びコメントにかなりのエネルギーとコストを費やしてきました。私も社会人の端くれ、これ以上この問題にばかり関わっているわけにいきません。御不満かも知れませんが、これくらいで御容赦ください。
朝日ジャーナルを調べてください。単行本化される前に日記の一部が掲載されています。そこに何か(編集者が書いた)情報が掲載されているかも知れません。とっくに調べているかな。
http://blog.honyomi.jp/200509/article_33.html
お父さんと何か話されたんですか。文藝春秋の中でで、お母さんは『二十歳の原点』出版には反対だったと言われていましたが、お父さんは後悔していなかったのでしょうか。
とても嬉しいコメントをいただき恐縮しております。
これからも京都の思い出を書くことがあるかも知れません。
どうぞまたいらしてください。お待ちしております。
本当にありがとうございました。
15年ぶりに京都に住んでいます。烏丸二条・・・京都国際ホテルも府庁もアオキ書店も近いです。
最近の京都は高層建築が増えて様変わりしてきていますが、堀川や丸太町は以前の雰囲気ですね。
夜の市電、薄暗い電球とニス塗りで薄く光る車内を思い出します。
もうすぐ紅葉の京都です・・・北白川へ!!!
高層建築が増えてきましたか。修学院離宮の借景はどうなったでしょうか。
夜の市電、思い出します。
北白川、ひょっとしてキャッツアイという店があった?
http://plaza.rakuten.co.jp/kozaki/diary/200508060000/
喫茶店で話したことがあります。おかっぱ頭でボーイッシュな感じでしたよ!笑うと金歯があり清々しかった印象があります。下をむいて言葉を選び必死で話しました。活動家の言葉でなかったようです。ラーメン食べて別れました。帰り際、恒心館泊りといいました。
gakkokamenさんとあなたの今までの会話見させていただきました。私もyukieさんと同じように、今まで文字の中にしか知らなかった高野さんが段々と生身のものとして私の中に生まれてきました。高野さんの本を読んでからもう12年が経ちました。その間何度も何度も読み返しては私の中に高野さんはいました。実家を訪ねてお母様にお会いして話を聞かせていただいたこともあります。高野さんが最後に過ごした下宿の川越宅を訪ねて、高野さんと同年代だった川越さんに話をきかせていただいたこともあります。でも、それらの話よりもあなたの話されることは私にとって衝撃的でした。私も高野さんと同じ女性。どうしようもない相手に恋する気持ち(または寂しさから一緒にいてくれる相手を求めてします気持ち・・・)なども分かります。だから、高野さんが自殺する直前に何を考え何をしていたのかは、最も知りたかったことかもしれません。あなたの話を聞いて堪らない気持ちになります。
一体あなたは高野さんとどのような関係だったのですか?なぜそんなにいろいろ知っているのですか?
質問させて下さい。川越さんを訪ねられたとき23日午後からアルバイトに出かけるまでの経緯です。お父さんはいつものようにと、失格者の弁で述懐されていますが、gakkokamenさんの友人aさんは8時10分ごろアルバイトと、いつもより遅いのではっきりと記憶されています。どちらがより正確なのか知りたいのです。川越さんのコメントは如何でしたか。是非お聞かせください。宜しくお願いいたします。
まだわたしも社会の片隅でひそやかに静かに生きています。ちょうど一月前でしょうか野辺に満開前の彼岸花をみました、凛として静かに佇んでいました。彼岸の「こころ」なのかと深く想いをしました。
私が知っている限り、いつも静かで優しい顔をしておいででした。
今日もクリ-ニング店に行って、持ってきたはずのカ-ドを探していたら「ゆっくりお探しやす」と京都弁でした・・・「行きよし」「見よし」「お見やしたか?」などなど、失われ行く京都弁です。
「東一条」は今では「京大正門前」です。市電の頃は東一条でした・・錦林車庫前行きを熊野神社前で乗り換えですね。
今日はいい天気なので、御池通りを西にJR二条駅の辺りまで買い物に行きました。二条城のお堀の横を走りました!
丸太町通りはあんまり雰囲気が変わらないように思います。 でも、河原町丸太町あたりの古本屋は壊滅しました。残念です。 荒神橋と橋のたもとの喫茶店はそのままです。
私の知る限り京都の紅葉は11月10日頃から20日頃が一番良かったような気がします。遅れているのは全国的な傾向のようですね。
いいなあ、京都弁。
東一条もなくなりましたか。京大正門前には違わないけど。どうせなら吉田山入口なんて言った方が京都らしくて良いと思うけど。
古本屋壊滅ですか、すると残るのは京大の周辺あたり?
荒神橋の喫茶店、懐かしいなあ、なんて言いましたっけ?
京都行きたいなあ!
牧野さんが発見し、校正し、ビラに投稿し、新潮社が完成させたのなら解りますが・・
ずっと疑問に思っていました。だれか教えて下さい。
あいにく私にはわかりません。
下記のHPに写真入で紹介されています。
映画「ヒポクラテスたち」にも登場しますよ。
府立医大の木造の古い寮も舞台なんですが、これも現存します。
http://gourmet.yahoo.co.jp/gourmet/restaurant/Kinki/Kyoto/guide/0501/M0026000492.html
ちなみに、二十歳の原点にでてくる「ろくよう」は、河原町三条に現存します。
いつも丁寧なコメントをありがとう。
リバーまではなんとか思い出したのですが、その次がわかりませんでした。ミートソースのスパゲティーとコーヒー、川面をぼんやりながめて物思いにふけったか、ただボヤーッと川を眺めていたのかも。多分私の場合は後者ですね。
活字になった詩のすべてのフレーズが自筆で書かれています。間違いなく悦子さんが書いた詩でしょう。
この詩は、別れの言葉として中村に渡そうと6/22深夜に書かれ、別の紙に清書されていると思う。
そして翌日、中村に会って渡している・・・そんな推測をしています。
質問には、はぐらかさずに答えてください。高野さんのことを少しでも詳しく知りたいと思う人のためにこの記事を書きました。
多くの人と情報を共有したいと思ったからです。
私は知りうる限りのことを書きました。情報を出し惜しみして、人からは聞くけれど自分からは情報を開示したくないと言う人にこのブログは無縁です。
答えたくないならその旨コメントしてください。
また、このブログではプライバシーを尊重します。
したがって、それに反するコメントは一方的に削除します。以上は私が定めたルールです。このルールに従っていただけない人は以後出入りをお断りします。
誠実さには誠実さをもって応える必要があるのではないでしょうか。
またブログの内容とあまり関係ないこと、及び自身の欲求だけを記述すべきではないと思います。ブログの内容及び自身の評価を傷付けるだけです。また他の訪問者の迷惑にもなると思います。自戒を込めて、記述させて頂きました。
最後にこのブログを傷付けない為、掲示板を紹介させて頂きます。
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1116746741/
返事が遅くなってしまいすみませんでした。私は仕事がら毎日パソコンを開けることが出来ないため、返信が遅くなることがあります。すみませんでした。
さて、質問の件ですが今日何年ぶりかに当時の自分の日記をだして確認してみました。私が京都の川越さん宅を訪ねたのは、ちょうど10年前の平成7年の8月のことでした。確か「views」という雑誌で高野さんの記事が出た少し後でした。突然訪ね、高野さんの話が聞きたいという私の勝手なお願いに2時間ほど時間を作って下さいました。川越さんはとても紳士な方でした。
日記を読み返してみたのですが、残念ながらあなたの確認したい箇所は記述ありませんでした。しかし、高野さんが亡くなる直前の話を聞いた箇所がありましたのでそちらを記述します。
「・・・高野さんは午後11時頃家をでたらしいのです。最後に話したのは自分だった、と川越さんはいいます。よぉ、がんばってやってるか、などと川越さんが高野さんに声をかけた時、高野さんは一言くらいで返事をしただけで、もう誰ともしゃべりたくないような感じだったそうです。・・・」
川越さんに聞いた話では、高野さんは夜11時くらいに下宿先を出たとのとでした。それが高野さんを見た最後だったと・・・。アルバイトに関しては何も聞いた記憶がありません。
私は今日日記を読み返してみるまで、この記述を忘れかけていました。あなたが調べた結果では、高野さんはバイト先から中村さんの所へ行ったのではないかと推測していますね。私は高野さんが亡くなる直前に中村さんのところに会いにいった、という話はもちろん全く知りませんでした。下宿を出てから線路に飛び込むまで何をしていたんだろう、とよく考えたことがありますが、何も具体的に考えることは出来ませんでした。私は高野さんを知っているわけではありませんでしたから。
川越さんから聞いたお話で良ければまた記述します。
2. バイト終了後、下宿に戻る?午後10時過ぎ?
3. 高野さんは午後11時頃家を出たらしい
(*川越さん談,えっちゃん取材)
4. その後、中村の寮を訪ねた?
5. バイト仲間が午後12時頃高野さんをタクシーに乗せた
(バイト仲間不明)
6. タクシーで下宿に戻る?
7. 24日午前2時半頃に下宿を出る「ちょっと出かけてきます」
(川越さん家族)
*印は最近の証言、無印は父三郎氏の後書き等から
コメントどうもありがとう。
私はトップページにも書いてあるとおり基本的にはトラックバックもコメントも大歓迎です。
ですからこれまでも記事とはあまり関係のないことでもできるだけブログに残してきました。私のこの拙いブログに折角コメントを残してくださるのですから。これまでに削除したコメントは覚えている限りでは3件。1件目は私の身元がばれそうになったもの。2件目は、特定の企業名が書かれていたもの。3件目は今回の事態に至らせたもの。
コメントありがとう。
あなたもブログを開設してはいかがですか。
あなたのお話を聞きたい方が大勢いると思います。
一度にたくさん書く必要はありません。少しずつ書き足していけばいいのです。
そして私のブログにもトラックバックしてください。歓迎します。
1 バイト仲間abcではありません。Aが言っているのです。また8時10分ではありません。本文にもあるとおり「8時10分前ころ」です。
5 私はそのバイト仲間について、心当たりがありません。少なくともビヤガーデンの仲間内にそのような人がいたとは考えられないのです。
府庁近くの寮には正社員の方だけがお住みだったのでしょうか。
悦子さんが寮にいる中村さんを訪ねたと仮定して、寮にお住まいの方がタクシーを呼んでくれたということはないでしょうか。
「虚ろな表情で死にたいと言っている悦子さんをタクシーに乗せた」という証言が具体的で事実のように思えるのです。
どういたしまして、私もアバウトな性格なので。
寮の件は推測ですが、正社員だけが対象だったのではないでしょうか。アルバイトも入れる厚生施設というのはあんまり無いのでは。
タクシーの件は前に書いたとおりです。
まず あなた様に対して非礼、失礼の数数の件伏してお詫びいたします。申し訳ありませんでした。えっちゃんに御礼と少しばかりのコメントして退場致します。今までのお付き合いまた、あなた様の貴重なお時間を拝借しました事も含めて心から御礼申し上げます。不徳のいたすところ恥じるばかりです。
gakkokamenさんに不徳、非礼を指摘されました。自業自得と深く反省しています。丁寧なコメントありがとうございました。以下コメント
23日の空白が全然埋まらなかった。高野さんの足取りを辿れば何か在る筈と想い始めました。そして素晴らしい記憶 gakkokamenさんaさんにたどり着きました。感激して性急な質問にほとほと困惑された様子今は恐縮するばかりです。
友人u氏が男子寮で11時頃高野さんと出会い中村さんに逢いたい旨伝言を受けています。あなたの取材で11時頃下宿出た。との事、やっと23日の空白が埋まりました。感激しています。本当にありがとうございます。
バイト、下宿、寮、下宿 そして2時過ぎに外出
「ちょっと外出」。2ヶ月懸かりましたが繋がりました。お母様に思わず引き込まれそうになった悦子さんの微笑みもふくめてご報告できます。両方のえっちゃんに重ねて御礼申し上げます。 「さようなら」
1 お父さんと何か話されたんですか。(mark4さん09/26 10:19)
2 「わたしの小学生の作文みたいな日記に高野悦子さんは、いましたよ!仮面のままでもかまいません。紹介しますよ!約束でしたから・・・・・。」(10/18 13:19付けのコメント)は、どうしたのですか。
3 一体あなたは高野さんとどのような関係だったのですか?なぜそんなにいろいろ知っているのですか?(えっちゃんさん10/29 01:21)
4 ところであなたは、16年前にお父様と会われた(09/23 13:33付けのコメント)そうですが、今度は、「17年前には、お母さんお父さんにお逢いしました。」(10/29 10:03付けのコメント)ですか。
5 あなたもブログを開設してはいかがですか。
返事はいりません。
ごきげんよう。
重要な取材証言ありがとうございました。
>>「・・・高野さんは午後11時頃家をでたらしいのです。・・と川越さんはいいます。
>>友人u氏が男子寮で11時頃高野さんと出会い中村さんに逢いたい旨伝言を受けています。
邪推ですが、団塊世代ベンチ組さんは、当時のホテル関係者の方
のように思えますがどうでしょうか?
更に邪推すると、日記文中の鈴木さんではございませんか?
gakkokamenさんのブログから、ホテルに連絡があったのは24日ではないか。25日の午前中に警察から父親に連絡されているので、25日では辻褄が合わないような気がします。地方出身者の確認では、下宿先、大学、バイト先に当然事前確認すると思われます。時間はオープン時間の午後5~7時の間(オープン時間不明の為)ではないでしょうか。ホテルに電話があれば、当然実家や下宿先も確認できたのではないでしょうか。ホテルへの連絡を遅めの7時としても、その後1時間以内には実家や下宿先は判明したのではないか。そう考えるとなぜ家族への連絡は翌朝になったのだろうか。当然24日中には、帰省の可能性を含めて、警察、下宿先が実家に連絡するのが普通ではないか。指紋照合や人定の確認に手間取ったのだろうか。あるいは夜間による家族への配慮。それともお役所仕事。少し疑問が。
23日の行動について、バイト終了後寮を訪問する場合、ホテルから寮に向かうのが普通ではないか。しかし下宿先の大家さんの証言から下宿から寮に向かっていると考えられます。バイト先遅刻ということで、慌てて中村さんに渡す手紙などを忘れ、下宿に戻り、寮に出かけたのかもしれない。忘れ物は、何も持っていなかったとの情報もあり、ポケットに入る手紙としました。しかし寮に不在の為、日記に記述されているお店に中村さんを訪ねたのかもしれません。しかし会えず、バイト仲間に会ったのかもしれません。そして「タクシー」の話につながったのかもしれません。但しビアガーデンやメンダイのバイトの人数や配置は分かりませんが。
「旅に出よう」の詩について、下記サイトに友人等の手紙の抜粋が掲載されています。最後のY氏とK氏の記載からY氏は日本史学科のクラスメイト、K氏は日本史学科の4回生で、全共闘のリーダー格の人物ではないでしょうか。(Y氏の手紙に書かれているKさんはK氏と同一人物)K氏はその記述から西那須野の実家を訪問し、遺族と対面している可能性があると思われます。その時日記を見せて頂き、書き写したのではないか。それが全共闘の機関紙に転載されたのではないでしょうか。全共闘の友人が日記を発見したとの情報もありますが、Y氏の手紙には「高野さんはいつも殆ど一人で淋しそうでした。」記載もあり、関係は薄かったのではないでしょうか。また牧野さんからとの情報もありますが、牧野さんは多分全共闘に関わっていないと思われます。
http://www12.ocn.ne.jp/~chi0010/letter.htm
類推に類推を重ねた結果を記述させて頂きました。
団塊世代ベンチ組さんの情報発信を期待しています。
いつかきちんと御礼を言いたいと思っていました。高野さんのことを追いかけているうちに、あなたのブログを知りました。生身の高野さんを知っていたあなたのコメントを呼んで、いてもたってもいられなくなり、私もいつに間にか参加させていただきました。「団塊世代ベンチ組さん」にも大変貴重なお話を聞かせていただきとても感謝しています。そしてやはり何よりこのような場をみんなに提供して下さったあなたに御礼と感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
gakkokamenさんのコメントはいつも丁寧で、読んでいるだけであなたの人柄がうががえました。だから、ブログの他の記事もいろいろ見させていただきました。秋田の自然、食の話などとても楽しいです。今度はそちらの方にもコメントをさせていただきたいな、と思っています。そういった人は私以外にも大勢いると思います。
私は恥ずかしながらパソコンに疎く、ブログを開設などどいうことはとても出来そうにありません。ですから、情報共有の場としてこれからもここに書き込ませていただけたらとても嬉しいのですが。
今まであなたのお話をたくさん聞かせていただき感謝しています。結局は推測に過ぎなくても、高野さんが最後にどのような道筋をたどったのか、おぼろげでも見えてきたような気がします。ありがとうございました。また、私の情報が少しでもお役に立てたなら良かったです。正直いってあなたに質問されるまで、自分が持っている情報のことを忘れかけていました。
10年前に「views」の記事を読んで、そこに書いてあった住所(町名までで、番地などは載っていませんでした)を頼りに探し出した川越宅。昨年京都に行った際、ふらっと立ち寄ってみましたが川越宅は無くなっていました。ちょうど、建物のあった所は取り壊されていました。川越さんはどうされたんでしょうか?
話がずれてしまってすみません。また、あなたとどこかでお会いできたらと思っています。
gakkokamenさんへ
続いてコメントを書かせていただきました。すみません。
いつでもどうぞ
歓迎します
情報交換の場としてどうぞ活用してください。エチケットを守っていただければどなたでも歓迎です。
いつもコメントのお返しはできないかも知れませんが、あしからず。
稿写真(日記ノートの写真)ですが、これは出版本の詩とはだい
ぶ違ってますね。悦子さん自身の書き直しもありますが未完成で
す。出版本にあって写真にはまったく無いものは >>出発の日は
雨がよい>> で始まる二章目(全3行)です。それ以外の章は写
真にありますが、順序などは違っています。理由と原因を考える
と、1. 写真に撮れていないページがある。
2. 完成された詩として別の紙と時間に書かれたものがあった。
3. 那須文学に関係していた父、三郎氏が出版の際に加筆推敲。
などの可能性がありますね。
いずれにしても悦子さんの詩だとしていいと思います。この詩が
あるからこそ未だに読むものを惹きつけるのだと思います。
[二十歳の原点 ]で検索をすると15.000件のヒット数があります。
二つに分割してコメントを送らせて頂きます。
わたしも自分のブログを立ち上げるのはなんとも・・・・・。申し訳ございません。
gakkokamen様、こちらで皆様の情報を読ませてください。恐縮いたします。
gakkokamenさんとご学友、コメントされた皆様からの貴重な情報を感慨を持って読ませて頂きました。最後の詩の自筆写真や皆様の情報をつなぎ合せると、最後の瞬間に至るまでの悦子さんの苦悩がひしひしと迫ってきて、胸が苦しくなる思いです。彼女は6/23をどの様に過したのでしょう。何故かいつもより遅く8時10分過ぎに元気のない様子でアルバイト先に現れ、9:30から10:30頃微笑みながら煙草を吸い、その後下宿に戻り、11時過ぎに下宿を出て、寮に中村さんを訪ねUさんに会っていますね。
中村さんには会えなかったそうですね。
永遠に・・・・・
以上は、直接間接的な目撃情報がありました。その後バイト仲間が「死にたい」とつぶやく悦子さんをタクシーに乗せたとどこかで読みましたが、これについてはどなたか情報をお持ちじゃないでしょうか。それから8時10分過ぎにアルバイトに現れるまでに、誰かと会っていたとか、下宿での目撃情報はないのでしょうか。今更何をと思われるかもしれませんが、長年に亘る「二十歳の原点」の一読者として深い関心がございます。よろしくお願い申し上げます。
gakkokamen様、不躾の段平にお許し下さい。
このテーマに限らず楽しく読ませて頂いております。これからも是非楽しい情報のご発信お願いいたします。
どうぞ存分に議論してください。私は積極的に議論に関与するつもりはありませんが、ブログ管理者としてやるべきことをやります。
そんなわけでkamogawaさん、職場にて空想中さん、ちゃんと読んでいます。決して無視しているわけではありませんよ。
いつの間にか高野さんは23日の8時10分過ぎにビヤガーデンに現れたようですね。本文を良くお読みください。Aは「8時10分前ごろ」と言っています。誰かが間違って8時10分と書いたら、いつの間にかそれが一人歩きし始めたようです。ちょっと怖いことです。
何度でも申し上げますが、タクシーの件については、少なくともビヤガーデンのバイト仲間では思い当たる人がおりません。
いつでもどうぞ私のブログにいらしてください。歓迎いたします。
ご好意に心からお礼申し上げます。
確かに6/23に高野さんがビアガーデンに現れたのは八時十分前頃と本文に記載されていました。ご指摘有難うございました。軽率をお詫びいたします。
ドンマイ!
不思議な街、京都。
異空間
いい空間
よくわかります。
下宿のおばさんは大阪の人でした。
とっても優しくて明るい方でした。
下記のURLで当時のキャンパスの航空写真が見れますよ。広小路も衣笠も。画面左下の ランドマークをクリックし立命館大学と入れてちょっと工夫しながら操作してみてください。拡大しても人影さえ分かるほど明瞭に見ることが出来ます。撮影年次もいくつかあります。
国土画像情報(カラー空中写真)閲覧機能(試作版)
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WF_AirTop.cgi?DT=n&IT=p
広小路校舎 が写っている航空写真画像
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/74/ckk-74-15/c5/ckk-74-15_c5_15.jpg
衣笠校舎 が写っている航空写真画像
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/74/ckk-74-14/c12/ckk-74-14_c12_21.jpg
広小路は御所の場所から、衣笠は竜安寺の池から見当を付けて移動してみて下さい。撮影は昭和49年。
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/74/ckk-74-15/c4/ckk-74-15_c4_9.jpg
情報どうもありがとう。
懐かしい光景です。
二つに分けてお送りします。
gakkokamen 様、貴方のブログにこのようなメッセージをお寄せすることには、ご不快をお感じになるのではと不安に思いながら書き込ませていただきました。どうかお許しください。わたしはこちらで貴方や皆様のメッセージを拝見して以来、本の中にしかいなかった高野さんが等身大の姿でわたしの目の前に現れてきて、動悸が抑えられない程の衝撃を受けました。そして、大げさに言えば“わたしの原点探し”を始めました。先日、西那須野町にある高野さんのお墓にもお参りさせていただきました。高野さんとその時代がわたしの人格形成に大きく作用していたことも良くわかりました。わたしの友人に話すと、本当に多くの人からそれぞれの思いや高野さんにまつわるお話を聞かせていただき、驚かされました。(続く)
(先程の続きです)
その友人達と読書会のような形で、高野さんやその時代、それからわたし達自身について語り合いたいねと話しているところです。貴重な情報をお持ちになっている“えっちゃん”様にも是非、ご参加いただけると大変うれしいのですが。わたしは、高野さんが残された清冽な魂は、三十六年たった今でも輝きを失っていないと改めて感じました。それどころか、明日の夢を見出し難い多くの若者達や熟年離婚、自殺者の増加など混迷を深めるばかりの現在にこそ、高野さんの哀しみや青春の叫びを一層生かせるのではないかとの思うのです。“えちゃん”様や他の皆様でご賛同いただける方は、わたし達と一緒に語り合って下さいませんか。そこでの話をgakkokamen様のブログでお伝えできればとも思います。omoide1969@yahoo.co.jp にご連絡ください。お待ち申し上げております。gakkokamen様、わたしの非礼をどうかお許しください。
ちっともかまいませんよ。
このような形で活用されるのでしたら大歓迎です。
あなたは高野さんのお母様にもお会いになっているのですね。
その時のことをこのブログに書いていただけませんか。
おそらく、高野さんのことをもっと知りたくて、お母様にお会いしたいと思っている方が大勢おられると思います。でも、直接お会いすることに躊躇されておられることでしょう。
そこで、あなたがお聞きになったことを書いていただきたいのです。
御自宅に伺いたかったのですが、他人が伺うことに躊躇してしまいました。
えっちゃんさんのコメントを聞きたいですね。
ありがとうございます。
高野さんの鉄道自殺ですが、どういう状況だったのでしょうか。
線路の上を歩いて後ろからあるいは前から跳ねられたのか、それとも近づく汽車に飛び込んだのか。
状況が分かれば、当時の心境もある程度分かるではないでしょうか。
京都府警西陣署昭和44年調書調べなさい。
以上。
法自ビラの件
昭和46年10月初旬が10月10日集会の時配布されたと推測します。まず素人に出来る代物でない、写真の上に詩を乗せている、出版専門家でしか作れないと思えます。当時はガリ版で鉄筆、そんな時代です、とても貧乏学生には作れない、10月10日は関西労学決起集会が丸山公園で労働者、学生5000~7000名結集したと記録があります。その集会を目的にしたと考えられます。背景まではまだ辿れません。
46年は44年の間違いでした。お詫びして訂正します。
有難うございます。
それでは自殺の数ヶ月後に「二十歳の原点」巻末と同じ詩を投稿したのは誰でしょうか?
高野さん本人の詩は写真で見る限り未完成ですし、遺族の筈がないし、日記を発見した誰かが校正して投稿したのでしょうか?
返事が遅くなってすみません。今このページを見て驚きました。お誘いいただき大変嬉しく思っています。しかし、残念ながら私はあなたが想像されているほどの情報は持っていません。高野さんのお母様にお会いした時のこともおぼろげな記憶となっています。それでも、あなたがおっしゃったように、高野さんの魂は今も悩める若者、大人の心の中に生き続けていると思うし、私も衝撃を受けた一人です。あなたの気持ちよく分かります。読書会との話ですが、私もそのようなことをいつか誰かと出来ればと思っていました。みなさんの高野さんへの想いを聞きたいし、自分の想いも聞いてほしい。そう思っている方は他にもたくさんいるのではないでしょうか。是非参加したいです。
高野さんのお母様にお会いした時のことですが、gakkokamenさんにもコメントしていただいたので、私のつたない情報でよければお話します。
高野さんの日記を生で見た時の衝撃はとても言葉では言い表せませんでした。綺麗な整った本の字ではなく、走り書きのようだったり、書き直した後があったりして、高野さんは同じ普通の女性だったんだな、と思いました。
もう記憶は定かではないのですが、中村さんの記述が出てきた所では、最初名前が「中村」ではなく(これは仮名ですが)、「X氏」となっていました。5月12日の日記の中で「・・・彼と一緒にいたくなる私 名も知らぬ彼と・・・」という記述があります。
日記の前後から考えて、また常識から考えて、同じバイトの人間の名前を知らなかったわけがありませんよね。でも敢えて「エックス氏」と記述したわけはなんだったのでしょう?確かその後途中から本名が出ていたと思うのですが。
文芸春秋にお母様が自身のコメントを載せていたとおり、高野さんが亡くなる数日前に下宿を訪ね、デパートで買い物をしたという話も聞きました。今はその時のお母様のコメントがよく思い出せません。すみません。本当にきれぎれにしか思い出せなくなっています。私も緊張していたからかもしれません。ただ、お父様が私とお母様が話している近くを時々通っては、嫌そうな顔をされていたことをよく覚えています。きっと、お父様は私のような高野さんの思い出話を聞きにくるような者を快く思っておらず、早く帰ってほしかったのでしょう。それは、お父様の心境を思えば当然のことですよね。
また、思い出したら書きます。
大胆な仮説です、部屋で最初に日記を発見したのは、「兵頭氏」全共闘議長とsさんら数人です。彼らは闘いの記録としての価値を評価せずに元に戻しています、シンパとしての高野さんの日記、当然でしょう。25日の夕刻両親が日記見つけられています。両親は、宿に戻り夜を徹して読んでいらっしゃいます。誰の介在も無いと考えるのが妥当でしょう、学生運動も少し停滞気味の時期、10.21国際反戦デーを控えた10.10労学総決起集会、あるとすれば「詩」への反応伺い、闘いへの「戒め」みたいなメーセージ。
大胆な仮説ですが・・・・・・・・
ただ、「旅に出よう」の詩は、悦子さんの直筆ノートと本の詩を比較すると、父親の三郎氏か編集者により若干の追加と整理がされていることは確かでしょうね。ノートとは別の場所に悦子さんによる完成原稿があるのなら別ですが。
69年9月那須文学に掲載の一部は当時朝日ジャーナルで読んだ記憶があります、「詩」あなたの推察どおりでしょう、一部加筆「題」「旅に出よう」那須文学では「無題」としてありますから。
とても貴重なお話をご紹介いただきまして、本当にありがとうございます。新たな感慨に浸っています。わたし達の語り合いはゆっくり進めるつもりです。情報が有るか無いかも関係ありません。高野さんについて語り合うことで、わたし達の未来に何かヒントを見つけることができて、高野さんがより安らかに休まれることをお祈りできればいいなと思います。お気軽にわたし達の代表アドレス(omoide1969@yahoo.co.jp)
にご連絡ください。お待ちいたしております。gakkokamen様、改めてお礼を申をし上げます。
旅に出ようの詩は、出版本のように日記の最後に書かれてありましたか?御覧になっていて記憶がおありでしたら教えてください。
この詩が他の記述のように彼女自身の心の整理・昇華として書かれたものなのか、それとも中村へ手渡す最後の手紙という具体的な目的をもって書こうとしたものなのか、が気になります。
6月21日の日記に「その何とかいうやつにやる本と手紙をもって、・・・」という記述がありますが、その手紙の内容がこの詩である可能性もあります。そうすると完成詩が別の時間に別の紙に書かれていた可能性もあります。
教示どうも有り難うございました。閲覧に京都府警西陣署にまで赴く必要があらば、TPO的に無理です。
どなたかご存知の方いらしゃいますでしょうか?よろしくお願いします。
貴重な情報をありがとうございました。
やはり朝日ジャーナルに掲載されたのですね。
私もそれを読んだ記憶があるのですが、最近図書館にその頃の朝日ジャーナルの記事を探しに行ったのですが、見つけられませんでした。
興味おありなら要旨をお伝えしますが。
当時D-51運転手名前出ていましたので探しました、また当時41歳と記憶していましたので消息も併せ探しましたが無理でした。ところで何故自死の状況にそんなに拘られるのて゜すか?不自然さをお感じなのですか?
ありがとうございました。
ジャーナルの記事で確認したいことがあったのです。
「ホテル」加藤尚文著の要旨の件は、おそらくこのブログの読者には関心があるでしょう。著作権などで支障のない範囲で紹介できるようでしたらお願いします。
ご丁寧なご指導ありがとうございます。著作権など考え及びもしませんでした。何回か分けて要旨を紹介したいとおもいます。加藤尚文氏は故人です、4年ほど前に病没、本に依りますと、当時の労働運動は東の帝国ホテル西の国際ホテルとしてホテル労連のなかで最も先鋭的とあり自死された年は8回の春闘でストライキを決行しているようです。
ご教示ありがとうございます。
那須文学44年9月号に掲載されていたのですね。 6月24日の自死から2ヶ月も経たずに投稿されたことに高野三郎氏のやり切れない無念さを感じます。詩は多分 高野氏の手が大きく入っていますね。失格者の弁を読んでも文章力の高さが伺えます。
高野氏が那須文学9月号を悦子さんの関係者に送り、その中の誰かがアジビラに投稿した・・ということでしょう。
日記の写真、アジビラ、二十歳の原点巻末の詩、ずっと解らなかったのですが時間軸が繋がりました。
最後の「詩」の加筆は前段部分のみと考えます。詳細を何度も読みそして見て下さい、高野さんの普段使っていない微妙な言い回し、文字に気付くでしょう。三郎氏の加筆でしょう「無題」から「旅に出よう」に「題」が昇華しています。
三郎氏か那須文学の編者二名、出版者(ジャーナルか新潮社)何れかと考えます、新潮社とすると当時の編集者「大門氏」がその辺の事情はご存知でしょう。氏は昨年か一昨年定年退職し、半官の仕事をされながら、有機農業のボランテアを現在されています。氏の書かれた文章を読みますととても心優しい人柄が偲べます。
すみませんが、詩のことは特に記憶にありません。私が見た中にあの詩があったのか、最後に書かれていたのかも分かりません。ちゃんと記録していれば良かったのに、と今では思っています。
私が見させていただいた日記は「中村さん」の記事があったので、高野さんが亡くなる前の日記であったと思いますが、お母様は「随分以前に日記を貸してほしい、と言われ貸したが帰ってこないものがあって、貸したことを後悔している」と仰っていました。高野さんの一読者として、悲しい話ですよね。
それと、私が日記をざっと読ませていただいた限り、原本どおりに本が出版されているわけではないんだな、と思った記憶があります。
それは、ちょっとした語尾の違いなどだったと思いますが、一つかすかに覚えている気になった箇所があります。
中村さんに何度か電話をかけ、取り次いでもらった時の記述がありました。それが、「すごく待たされたのに出てくれなかった」というような記述だったと思うのですが、(肝心な所が定かでなくて申し訳ないのですが)、とにかく具体的に中村さんに冷たく対応されたような記述がしてあって、(本には載っていない箇所だな)と特に思った記憶があります。ご両親の何らかの配慮があって本に載らなかったのかな、と当時思いました。今でもわかりませんが。
読者としては、高野さんの言葉そのままで全文掲載してほしかったと思いますが、本を出すというのはそう簡単にはいかないのでしょうね。
あいまいすぎる記憶の情報ですみませんでした。
とても貴重な情報だと思います。
ご丁寧に有り難うございます。不自然というよりはあっけない結末だからでしょうか、本には、自殺は卑怯だ云々、と書いておきながら。(多分お母さんに買ってもらった)ワンピースを着ていたのが切ないと思ったものです。
ありがとう!
加藤尚文著「ホテル」から引用 頁150
京都国際ホテルを国際観光ホテルの系譜のように考える人がいるかもしれないが、じつは同ホテルはレツキとしたチェインである。小川栄一・藤田観光チェインのホテル・サービス界における地位は一種特異である。それはチェインのひとつとして既成専業ホテルに拮抗すると同時に大手電鉄資本とも拮抗しようとする。激しい競争意欲とトップの強烈な個性が合わさった時、藤田観光チェインは異常なまでの抗争力を持つ。そのチェイン網のなかにあり、その荒あらしい坑争力への不断の抵抗感から生まれたものが、ホテル労連・京都国際ホテル労組の職場組織である。
試しに藤田観光チェインのホテル・旅館レストラン部門だけをあげてみてもつぎのとおりである。(ホテル年間昭和46年6月現在)
箱根ホテル小湧園 754名 従業員数
京都国際ホテル 667
名古屋国際ホテル 580
鳥羽ホテル小湧園 153
太閤園 143
他 観光街・椿山荘・伊東ホテル小湧園・大島ホテル小湧園・下田海中水族館等
うち組合組織は京都国際ホテル(ホテル労連)箱根小湧園(同盟)のみで、合わせてチェイン内の組織率30%である。この他、椿山荘などのチエイン・レストランもあるうえにいまやチェイン本社の足下に椿山荘ホテル4000室の構想が公にされた。つまりチェイン・ホテル中、ホテル労連に関する限り、京都国際はただ一人、孤高の道を歩まされてきた。
5月4日以降の日記に出てくる「中村」さんの呼び方日付順に書き出してみるとこころの揺れ方がわかる様な気がします。「中村氏」「中村さん」「中村」「あなた」と変遷します。一度だけ順番が違いますが・・・。
jazzの関係からシアンクレールのことが詳しく書かれているサイトを見つけました。
http://homepage1.nifty.com/ModernJazzNavigator/chat/chat73.htm
貴重なコメントをありがとうございます。
また、よろしくお願いいたします。
参考になったでしょうか?その他思いつくままに投稿したいと思います。当時私はグリルで黒服を着て仕事していました。メンダイは二階、高野さんは、はじめメンダイそしてビヤガーデンでしたよね、グリルとメンダイはアルバイトも別れていました、メンダイのアルバイトが主にビヤガーデンの手伝いをしていたように思います。中村さんの思い出は微かにあるのですが、どうしても特定できません。
初めまして。u氏のこともご存知のようで、驚きながら読ませていただきました。あなたは高野さんやgakkokamenさんと同時期に国際ホテルで働いていらっしゃったのですね。
「中村さん」も「鈴木さん」も正社員だったのですよね。中村さんは誰だったのか特定できない、とのことですが、鈴木さんのことはご存知ですか?また、高野さんがどのような女性だったか、何でも結構ですので教えていただけたら嬉しいです。
いろいろとお話していただき有難うございます。大変嬉しく思います。中村さんは、見習いということはまだお若かったんでしょうね。高野さんと同年齢くらいだったのでしょうか。鈴木さんのこと、よく記憶しているとのことですが、貴重なお話有難うございました。鈴木さんは高野さんより随分年上だったのでしょうか。ストライキの時のことは、高野さんも日記に記述していますね。それから高野さんの鈴木さんへの想いは徐々に失望に変わり、中村さんの出現により消えてしまいます。鈴木さんにしても中村さんにしても、高野さんが魅かれた人がどんな人だったのか知りたいです。どんなことでもいいので、また教えていただけたら嬉しいです。
でも、高野さんはもういないのですから、彼女の最後の気持ちを知ることはやはり出来ませんよね。それでもみなさんとこうして話が出来ることは大変意味のあることだと思います。
gakkokamenさん、いつも場を提供していただいて感謝しています。有難うございます!
高野さんはもういない、しかしあなたのなかにしっかりと見事に生きつづけています、そして読者に問いかけ続けています、素直に生きなさい、優しく生きなさいと。青春を真正面に受け止めなさいと、初老のおじさんの愚痴がまた始まりそうです、ごめんなさい。
存分にどうぞ
メンダイ、メインダイニング、主食堂ですね。
なお、鈴木さんの容貌(・・・・・・)に関する部分は削除させていただきました。
鈴木さんへの非礼お詫びします、ネットに疎くご指導お願いします。「えっちゃんへ」鈴木さんが消え中村さんが登場する日記上の経過はどうなのですか?突然登場する感じですか?35年振り位に原点読み返して見ました、当時の時代背景みたいのもの投稿しようと思います、20歳前後の若者が今の若者と、同様に恋し・声高らかに歌い・食べて・飲み・泣き・啼く・・・「京都」で5月前後でしょうか、嵐山・竹林・釈迦堂・通り過ぎる風・弾むこころ・微笑む誰もが・・・・バリケード・アルバイト・暗い下宿・一人ぽつねん、けっして、高野さんの青春では無かった筈でしょう。
最後の日記を読みますと可哀想で涙ぐんでしまいます。先輩、元同僚、元部下 特にウェイトレスに高野さんの印象を聞いてみます・・・・しかし35,36年は遠過ぎます、とにかく努力してみます「えっちゃん」どうか明るく前を向いて日々をお過ごし下さい、おじさんが思い出す限り投稿しますので。
有難うございます。あなたや元ホテルマンさんの証言は大変貴重なものです。高野さんは死の数ヶ月前から国際ホテルのアルバイトを始めています。彼女にとってアルバイトの世界は非常に大きな意味を持っていたと思います。アルバイトを通して、生活や学生である自分について考えたり、恋愛をしたり・・・。死の直前までアルバイトに行っていたことをとっても彼女の生活に大きな比重を占めていたと思います。(中村さんという好きな人がいたから当然かもしれませんが)
あなた方のコメントが
元ホテルマンさん
年齢のことなど、いろいろ有難うございます。やはり鈴木さんは多少年上だったのですね。高野さんは鈴木さんに対して憧れのような気持ちを持っていたようでしたから。鈴木さんとは職場だけの付き合いで、中村さんのように一歩踏み込んだ付き合いには至らなかったようですね。高野さんはストで鈴木さんに偽善者だ、というように失望していますが、その後も鈴木さんを慕う記述をしたり、また失望したりしています。ちょうどそんな頃に中村さんと一夜を共にし、その後は中村さんの記述しか出てきません。誰かにそばにいてほしかったんでしょうね。
あなたの仰るとおり高野さんの青春は高野さん一人のものではなく、当時の学生に通じる普遍的なものだったのでしょう。私はもう学生時代をとっくに過ぎてしましましたが、前を向いて歩いています。有難うございます。高野さんの印象、耳に入ることがあったら是非教えて下さい。
メンダイはメインダイニングのことです、主食堂です。私事ですが高野さんの事件後2年ほどして海外に転勤になり4年程滞在し帰国後離職しましたので映画のロケ、原点フィーバー等は全く知りません、事件後2年ほどの間の記憶ですがあなたもアルバイトをビヤガーデンにて同時期にされて、そして事件の夜タバコを手にする高野さんを記憶されていらっしゃることに驚愕してしまいました。あなたの高野さんへの印象はどのようなものだつたのでしょぅか?
明るく前を向いてなどと諭すような言葉お詫びします。しかし前を向いて歩いていますとのコメントえっちゃんの人柄がわかるような想いか゛して妙に安心致しました。気の利いた言葉、記憶があればよいのですが、もう一度読み返します。どうもわたしには当時の若者が生きた時代背景を少し紹介するほうがいい感じがしています。若い高野さんの清冽で純情なこころを覗くことは不可能に思えます、その辺はえっちゃんにお任せしましょう。
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加うるにもうひとつ、重要な要素があった。それは、みずからがそのなかで生まれ、育ち、愛してやまぬ「京都」のホテル事情である。京都のホテル分布地図を広げてみよう。・・・略
この中で京都国際は、オープンショップの身でありながら京都国際支部、フジタ支部両者合わせてもわずか460名の中小単組でありながら、比叡山ホテル、京都パレスサイドなどの小惑星を背負いながら、京都におけるホテル労連の柱として、65年には全面スト69年71年には8波ストという鋭い春闘を繰り返した。-略-一言でいえば京都国際は他労組が容易に成功しえなかった青婦活動の機能を発揮しえたことである。とすれば問題の指導理念は何か。それを知る為に同労組の今までの実質上の指導者、n副委員長のパーソナリテーをみることにこしたことはない。n氏は昭和17年生まれ生粋の京都っ子を自認し、自負している。お姉さんが祇園で、吉井勇ゆかりの「よし歌」を経営している。
よし歌のむかし恋しきあわれ酒 おもいてあれば夏は来ぬかな・・・この歌は吉井勇全歌集の中にない、たつたひとつの歌という。
彼女は口数が少なくいつもおとなしかった。あまりみんなと馴染むことはなかった。
私たちも彼女が学生運動に関わっていることを知っていて、何となく近寄りがたかった。
と、既に書いています。
口数が少なく、おとなしく、皆んなと馴染まない感じですか!日記読みますととてもそんな感じには思えずむしろ反対にしか思えないむのですが当時学生運動バイトは孤立していたような雰囲気のようですね。ありがとうございます。
お尋ねします。高野さんをどうしても特定できません、原点の写真は髪が長いのですがアルバイト当時髪は長かったのですか?それともおかっぱみたいに短かったのでしょうか?事件の後の新聞記事を読みますと髪はおかっぱとなっていますが。短いと微かに特定できるかもわかりません。宜しくお願い致します。
当分の間、この記事のコメントの書き込みを停止します。
既にお気づきのように、私は高野さんも二十歳の原点もそれほど深い思い入れはありません。ですから、私の出番はなるべく少なく、多くの皆さんが情報交換しやすいような雰囲気作りを行うなど黒子として徹しようと考えておりました。
また、本に出てくる皆さんや関係者の方々も数十年前の御自分の姿が、自分の知らないところで語られることは決して愉快なことではないでしょう。そのようなこともあって、私なりのルールを作りました。プライバシーの尊重です。
ルールを守ってね。
永遠に停止されるのかと心配しておりました。
これからも宜しくおねがいします。
書き込んでください。
高野さんを語るときに必ず避けて通れない人物ですが。
今もお元気なのでしょうか?
当時は高野さんの日記で勝手に創り上げられた「牧野さん」のイメ-ジに戸惑いも有ったでしょうね。
でもお会いして話しを伺いたい人でもあります。
高野さんの日記が出版され、映画化され、ある種のブ-ムになっていた頃どう思っていましたか?
映画が製作されたことは知りませんでした。
文庫化された時も、ああまだ読まれているんだ、と思っただけです。
前にも書いたとおり、お母様の随想が文藝春秋に掲載されることを知って、彼女のことを思いだし、このブログに書きました。大勢の方から反響があり、正直驚きました。
私の知っていることは少しだけです。それはほとんど書きました。
私が書くことはありません。これからもブログの管理者として皆さんに”この場”を提供します。
えっちゃんさんがお会いになった川越健史さんは2年程前にお亡くなりになり、ご家族は引っ越されたそうです。
ご近所の方が教えてくださいました。
私も健史さんにお話を伺ったことがありましたので、とても残念でなりません。「しあんくれーる」のことについて、教えていただきました。
そうですか。川越さん亡くなられていたんですか。数ヶ月前にその地を訪れた時は、更地になっていて新しい建物が建てられるようでした。私も近所の方に聞いてみようと思ったのですが、何となく出来ませんでした。高野さんと同い年くらいだったはずですからまだお若いのに寂しいですね。
かっこさんは、しあんくれーるの事を聞いたそうですが、どのような話を聞いたのですか?良ければ教えて下さい。
お会いした健史さんは、坊主頭のような短髪で、体格の良い方でした。
健史さんも「しあんくれーる」に行かれていて、店内は煙草の煙で一杯だったという話を聞きました。場所を教えていただいて、「しあんくれーる」の場所に行ってみたのですが、既に更地になっていて残念でした。
健史さんには、いろいろお尋ねしたいことがあったのですが、突然のことでもありましたし、お話したのは3分程でした。
また、あらためてお話をお伺いしようと思っているうち、それもかなわぬこととなってしまいました。
入力間違えました。
上の文章は私のです。
返信ありがとうございました。10年前ですか。私が川越さんを訪ねたのは11年前ですから、同じくらいの時期だったのですね。しあんくれーるはその時にはもう更地だったのですね。私は場所も知らないのですが、どなたかのブログで更地になっているとの情報を見ました。
当時、川越さんのお宅を訪ねる若者はやはり多かったようです。時には話を聞いたり、時には諭したりしたこともあったようです。私の川越さんの印象は、笑顔の優しい紳士です。あの時のお礼を言いたかったのに、残念でなりません。
高野悦子さんについて調べていたらここへたどり着きました。
来春立命館大学合格を目指す、浪人生です。
私の父が高野さんより2歳年下で、父も学生時代二十歳の原点を何度も読み返したそうです。
(父は衣笠キャンパスでした)
最後まで一気に読みました。
感情を表す言葉が見つからないほど、胸がドキドキと苦しくなりました。
昔天神踏み切りがあった場所も、今はすっかり変わっているんですね。
立命館の大学生で、二十歳の原点を読んだ人はどれくらいいるのでしょうか。
これからもずっと、少なくとも立命館大学の学生にだけは
高野悦子という人の存在が語り継がれていって欲しいと思います。
それと、二十歳の原点ノートと序章、是非読みたいと思っているのですが手に入りません。
オークションくらいしか入手方法はないのでしょうか?
長々と失礼いたしました。
彼女が亡くなってしばらく経つのに、今も多くの若い人達に感動を与えているのですね。
二十歳の原点ノートと序章は、図書館に置いていませんか。
どなたかアドバイスをお願いします。
図書館なら大抵あると思いますよ。
受験生ですか・・
30年以上前に 広小路校舎の周辺をウロウロしていた他校出身ですが、未だに若い人達の感性の琴線に触れる何かがあるんだなあ と当時を懐かしく思い出しております。
愛さん、夢が実現するよう祈ってますよ。
原点ノートと序章ですが、確かにオークションならセットですぐに買えると思います。後は、ブックオフなどの古本屋でも見つかると思います。古本屋だと、気長に探すことになるかもしれませんが、特に大型店でない古本屋では稀に単行本で見つかることもあります。私も古本屋で単行本を全て揃えました。単行本のいい所は、高野さんのお父様の言葉などが載っているところです。見つかるといいですね。
私に関する不正確な情報が投稿されましたので、削除しました。誤った情報が一人歩きするのは迷惑かつ不愉快です。
皆さんへ
何度も繰り返すように、プライバシーを尊重してもらいたいのです。それが正確か不正確かにかかわらず。
また、このような書き込みがあったことに正直驚いています。
内容を確認の上で解除します。
ご不便をおかけしますが、どうぞ悪しからず。
当分はこんな形でがんばります。
高野悦子と鉄道とはとても関係があるんだということを昨日知った。私は悦子さんの家からそれほど遠くない場所に住むものですが、昨日「原点」末尾に記載された住所を車で訪ねてみました。
家の10メートルも無いようなところを東北線が通っていました。彼女の自殺は鉄道自殺ということで、私たちはそのさんたんたる状況を思い浮かべ心が重くなるのだけれど、もしかしたら彼女にとっては揺りかごのような音の発する場だったのかも、とふと思われてきました。
私は悦子さんより11歳ほども下の者ですが。
彼女に限らず、自殺は、やってはいけないと言う以外、コメントはありません。
生の延長の結果としての死でなく生の一部として死の世界があったのではと思うこともあります。
清冽の魂ガラス細工のような繊細な心に触れる度に魂を揺り動かされます。
今もなお読み続けられている「原点」の魔性みたいなものなのでしょうか。
中村さんに過酷なまでに裏切られ、牧野さんとも距離をおかざるを得なかった。
黄泉の世界に自分の思い描く理想郷を自死という手段で求めたのでとも考えてみました。
我々凡人には、思い描くことすら出来ませんが、しかしそう考えると高野さんの自死がなんとなくですが、少し整理が出来そうに思えます。
私も山陰線の御前下がる付近と西那須野の高野さんの実家の東北線に佇んでみました。
37年前の当時ほぼ同じ様な風景でなかったのかと思い至りました。
何故2時過ぎに「ちょっと出てきます」
の意味も少し考えてみました。
昭和44年当時の客車時刻表に該当する列車は、
無く貨物時表を調べたら、ありました。
国会図書館で貨物時刻表の該当貨物列車を
見つけた時は、複雑な気持ちになりました。
調べなければ良かったとも思いました。
彼女にはその無意識を育てていってもらいたかった。いつも頭でばっかり感じ・考えている。足の気持ちよさが無い、足で感じることをしない、足も考えることなど想像だにしない、すなわち無意識を知らない。
凡人さん、そのニックネーム何とかなんない、と高悦もいってる気が。
この場を、単に「美しい少女の不可解な自殺」を回顧する場とするならば、高野悦子の悲痛な叫びには蓋(ふた)をすることになるだろう。
そうではなくて、今、危機に瀕している多くの人々にとって、高野悦子の日記を生きるサンプルとして、そうした人々に開くことが(さまざまな意見を載せ得るような場とすることが)重要ではないですか?
私は中傷を言っているのではないことは、あなたにもお分かりでしょう?
あなたのコメントを掲載するか否かについて熟慮しました。
その結果、掲載しないことに決めました。
私はプライバシーの尊重をこれまでも何度も申し上げてきましたが、関係者を傷つけないことも大事なことだと思っています。
そのことはあなたにならおわかりでしょう。
1/4付けのコメントは、まさにその関係者を傷つけるおそれのあるものでした。
このブログでは、多くの皆さんにできるだけ自由に意見交換や議論をしていただきたいと思っておりますが、それでもルールは必要と考えております。
いつの日か一切の制約が無く語られる日が来ると思いますが、(少なくとも私は)今は時期尚早と考えています。
そんなわけですから、どうぞ悪しからず御了承ください。
なお、自殺は止めてくださいという私の主張は、信念です、と今は言っておきます。
時として過剰な謙遜はイヤミに聞こえることがありますが、少なくともこのブログでは、凡人さんが凡人と自称することに何の支障もありません。
また、どうぞコメントをお寄せください。
プライバシーは、限り無く尊重されますし、
場を荒らす様なことは、絶対に許すような方でもない。自分の制御範囲、許容範囲の意見しか
掲載されない。許せないからです。
煙草を吸う高野さんを自死の前夜、直接見なが
ら「自死するようには、見えなかった」とあっさりと「何故」を封印されました。
誰からか責められるとお思いなのか!
溢れる知性と教養をお持ちなのに不思議です。
しかし、寄せられたコメントのほとんどは掲載していますよ。自分の制御範囲、許容範囲と言われればそのとおりですが、ほとんどのコメントがその制御範囲、許容範囲内であるとも言えます。
それぞれのブロガーは自分なりの基準を持っているのではありませんか。それを明示するかは別にして。
ごく普通の女子大生であった高野さんの悲痛な叫び生への問いかけが原点にあるから今尚読み続けられているのだと思います。
プライバシーを侵害しない限り全ての書き込みを掲載していただきますようお願い致します。
ご了承ください。
この記事は、これをもって閉鎖します。
そもそもこれを書き始めたきっかけは、二十歳の原点が多くの方々に今なお読み継がれていることを知り、「高野悦子さんのことを色々研究しておられる方が多い。その方々からメールやコメントをいただいた。まだ知っていることがあったら教えて欲しいと。
記憶もおぼろげになりつつある今、あまり書くこともないのだけれど、少しでもどなたかの参考になればと思って思いつくままにこれを書く。」ことでした。
その結果多くの方々から貴重な情報などが寄せられました。
それらは、大勢の皆さんの参考になったことでしょう。
そのようなことから、当初の目的は達成されたものと判断しました。
それにしても、こんなに多くの方々が深い思い入れをもって読んでおられることに驚きを覚えます。
私はと言えば、本を読んでもそれほど深い思い入れは持ち得ませんでした。
私と彼女の出会いは、長い人生の中のホンの一瞬の出来事でした。彼女の自殺がなければこれほど記憶に残ることはなかったでしょう。
人が何故自殺するのか、わかりません。わからないものは謎のまま残しておいてもいいのではないでしょうか。
長い間ありがとうございました。
知らないことを教えてもらって
ありがとうございます
高野悦子さんの生き方死に方が
いいとは思いませんが
彼女の一途な考え方は
自分に ものすごく影響をあたえました
彼女を知る人を
一人だけ知ってますが
なかなかくわしく話を聞くわけにも
いかないので
このブログは大変ありがたいです
願わくば
高野悦子さんのことを
いつまでも残していただければ
うれしいです
大丈夫
このブログが続く限り残しておきますよ。
これからもよろしくお願いしますね。
飲みすぎにはご注意を!
この記事のコメント欄は閉鎖したはずなのですが・・・・・
昨日改めて新装版の「原点」「序章」「ノート」を書店で見掛け、またブログを訪問させて頂きました。新しく追加された舌を出している高野悦子さんの写真を見て、切なく感じた。
そうでしたか。おそらく私もそのブログは訪問したことがあると思います。
こちらは当面止めるつもりはありませんから御安心を。
私も30年(以上)ぶりで本を買い直して、改めて読み直してるのですが、どうしても飛び込んだようには感じないんですよ。
あまり意識もないうちに、ふらふらっと線路づたいに歩いていて事故ったとしか感じないんです。
もし自殺するつもりだったら本人が言うように日記は捨てていたか、そうでなければ遺書を何らかの形で残していたように日記から感じるんですよ・・・
通常の10倍の量の睡眠薬なんか飲んだら、
いくら処方箋もなく買える薬局の睡眠薬とはいえ、意識ももうろうとするでしょうからね・・・ 2日連日で飲んだとすれば・・・
そんな気がするんですよ・・・
事故死だって・・・
案外本人も亡くなられても、しばらく亡くなった事に気づいてなかったかもしれませんね・・・ 気づいたときにはきっと後悔したでしょうけど・・・
本当のことはわかりません。
その前夜、少なくとも私たちには自殺するように見えなかったということです。
”ふらふらっと線路づたいに歩いていて事故った”のかも知れませんし、自殺、他殺以外のいろいろな仮説があると思いますが、いずれも否定できないと思います。
はい。可能性は多数あってどれも否定できないのは分ります。
私は、本その他で、自殺と何の疑問もなしに断定してるところは解せなかったのですが、貴兄のような見解の身近な方がいらして、ある意味、ほっとしてます。
一点、聞きたいのですが、現場は踏み切りより西側ですか? 東側ですか?
また、(上り)機関車は惰性で走るようなところでしょうか?
あいにく私は現場には行っておりません。
したがって適切な返答はできかねます。
悪しからず。
どなたか、ご存知の方おられましたらよろしくお願いします。
機関車に向かって歩いていた感じだったのか、背を向けて歩いていたのか、
それによってちょっと場面が違うように思うのです。 また、機関士に見え易い状況だったのかどうか、とか・・・
国家権力だの機動隊だのという言葉は多数みかけますが、自殺(?)の原因は政治運動(学生運動??)とは関係ないふとした一瞬の事故にしか感じないのです。
学生運動にしても、もっと「普通に」冷静に距離を置いて見れなかったのかなあ??、と思うのですが、たぶんきっと私が何も知らないからそう思うのでしょう・・・
当時の同じ世代の方にとって、当時の学生運動というのは一般的に言って、どういうものだったのでしょうか??
あるいは多種多様で一般的には表現できないようなものだったのでしょうか??
でも、大学間を飛び越えて多くの(ほとんどの??)大学で同時期に起きていたとすれば、共通するエネルギーはあったのでしょうけれど・・・
どなたか何か教えていただけないでしょうか?
良くも悪くも躍動する京都が書かれており、今の京都には無い
雰囲気です。
管理人さんは、今は京都に居られないのですか?
展望台に行こうとしましたが、無理でした。
断念したので仕方なく、外から望遠での画像を撮影しました。
管理人さんに、ホテルの画像を見て頂きたいのですが?
ありがとうございます。
大学卒業後、秋田に帰り、たまに上洛しております。
あの頃の京都は今と違った賑わいがありました。路面電車が走り、結構歩くことが多かったのであちこちに人の姿が見られたと思います。
都ホテル、京都ホテルと並んで国際ホテルはベストスリーに入っていました。今はかなり大衆化されましたね。
私も思い出の屋上に上がりたくて、何度もホテルマンに聞いたのですが、叶いませんでした。屋上直通のエレベーターも閉鎖されておりました。
青春時代の大切な思い出の一つが失われ寂しい限りです。
1年ほど前から関係者に取材して「二十歳の原点」の検証をしているサイトがあります。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~takanoetsuko/
こちらになくなる当日の証言(ここの掲示板でいうU氏)があります。
ようこそ。御訪問ありがとうございました。
最近は、現役の学生、卒業生でも知らない人が増えました。
ロングピースを吸って紫煙をくゆらし微笑んでいた彼女は自殺するようには見えませんでした。もう数十年が経過しておりますが今でもこの信念は変わりません。
本の中身に民青とか、社学同、ゲバ棒、シュプレヒコール・・。懐かしい時代が思い出されます。当時、この本を読んでいた人は多かった。高野さんは私より一つ年上で、まったくブルーの部分の青春が重なっている。純粋、感受性が強いのと思い込みの凄さ。北アルプスの美しい自然に憧れる。若さに共通するものだ。
人生いろいろ。この年になっても自堕落な日々を送っています。老人感覚なのか、何事にも感じるものが少なくなってきた反省・・。高野さんのお墓に一度お参りしたいと思っています。墓がある西那須野町には行ったことがないけど何とかなるでしょう。