後縦靱帯骨化症闘病記
5月30日初診、6月13日入院、同月29日手術、7月15日退院、現在に至る。
経緯
この病気の診断は、今からおよそ30年前に下っていた。
たまたまひどい頭痛がして病院に行き、診察してもらうと「後縦靱帯骨化症」と告げられた。
頭痛は、いわゆる緊張性頭痛で、薬を飲むと軽快したが、問題は骨化症の方だ。このまま症状が現れずに生涯を終わることもあるが、顕在化すると痺れ、果ては四肢の麻痺に至ると言うことだった。その頃まだそれらの症状が出ていなかったので、経過観察でたまに検査をすることにして最近まで来た。たまに腰や肩が痛むことがあったが、対症療法で切り抜けてきた。
それが数ヶ月前から、首をそらせたり、腰を曲げたりしたのをきっかけに、体の一部が突然熱くなりやがて右手右足が痺れるようになった。更に右足がもつれて良くつまずく。神経内科、耳鼻科、整形外科、脳外科とおよそ考えられる診療科をめぐってみたが、はっきりした診断はなく、自分では加齢に伴う神経系の異常だろうと思った。
しかし、ふと自分は後縦靱帯骨化症という爆弾を抱えているはずと思い至った。それならば、経験豊富な医師の診断が必要だろうと思い、いろいろな経緯を経てふさわしい医師を紹介してもらった。
5月30日。レントゲンなどの検査の結果、手術をしなければならないほどの状態に至っていると告げられた。その結果、うまくいって現状維持、そうでなければ四肢麻痺とのことだった。このまま何もしなければ当然のことながら進行する。しびれから麻痺に至るかも知れない。
もはや選択肢はない。即、手術をすることにした。入院日は6月13日に決定。
準備
入院までの間、やることがたくさんあった。
この病気は厚生労働省の指定難病なので、手続きを踏めば医療費が極めて低額になる。提出する書類をあれこれ揃えて保健所に持っていくと、これとこれが足りないと言われ、暑い中を再び市役所に行く。やっと申請がが終わると、「認定されて証明書が交付されるまで3ヶ月くらいかかる」とのことだった。ただし、申請した日に遡って適用になるので以後の治療費はカバーされるとのことだった。
その他にも高額医療費の限度額適用認定証の交付申請など。
入院中に使用するスニーカー等の履き物、日常雑貨などの購入。
入院日までに、京都旅行をこなし、(http://blog.honyomi.jp/201706/article_1.html)その日を待った。
入院・検査
その病院は山の中腹にあった。
入院すると直ぐに検査が始まった。
血液、CT、レントゲン、MRI、そして脊髄造影。脊髄造影を除くとこれまでも経験済みだったから、それほどのストレスもなくたんたんと進んだ。
しかし、脊髄造影は怖かった。脊柱管内に注射で造影剤を注入する検査だ。相当痛いと聞いた。危険があるとも。当日、点滴をしながら検査室までストレッチャーで運ばれた。検査台に移り背中を丸めて両膝を抱える。「チクッとしますよ」と言われて麻酔の注射。そして造影剤の注入。あまり痛くない。麻酔も、えっ、これで終わりと思うくらいあっけなく終わった。歯医者の麻酔よりもずっと軽かった。案ずるよりも産むが易とはこのことだと思った。後は様々な姿勢をとっていろいろな角度からレントゲン撮影。これらで全ての検査が終わった。
給食
入院当初は普通食だったが、高血圧のため降圧剤が処方されていることがわかると高血圧食になった。塩分が少なくて味気ない。いろいろな出汁を使ってそれを補っているからそれほど辛くはなかったが、やっぱり塩分は最高の調味料だと思った。
パン食を希望したら、朝食に数回出て、うち一回は食パン6枚切りが2枚も付いて驚いたものだ。しかし、パン食は高血圧には適さないらしく、やがて丼飯に変わった。
手術の直後はおかゆ食で、直ぐに普通の御飯に変わったが、高さのある厚いカラーが首をぐるりと撒いた状態では、箸が容易に使えない。ぽろぽろとこぼし、食べ物がカラーと首の間に落ちていく。再びおかゆ食に戻してもらっておかずも細かく切ってもらった。これをスプーンで口に運ぶ。
入院中一番多いおかずは鯖の塩焼きだった。私の好物だから異存は無かった。
暖かい物は暖かく、冷たい物は冷たいままで提供され、病院食も改善されていると思った。味や見た目はいわゆる病院食。
血圧はあっという間に下がり、体重も6キロ近く下がった。効果は抜群だった。
リハビリ・温泉
手術前からリハビリが始まった。500グラムから始まってやがて1キロのウエイトを装着して足の上げ下ろしや足踏み、自転車漕ぎ。体全体のマッサージなどで体は軽くなった。
この病院には天然温泉が引き込まれている。病院の6階にある浴室からは周囲の山々が眺められる。術前、術後に入ったが特に術後の入浴は気持ちが良かった。
一時帰宅
2回、一時帰宅が許された。
入院中御法度のアルコールを補給。
少しばかり、町の雰囲気を味わった。
手術
予定日の数日前にドクターから説明があった。写真を見せられながら、病巣についての説明。やはり、うまくいって現状並み、最悪の場合には四肢が麻痺するという。翌朝まで考えて、承諾書にサインするようにと言うことだった。不安が募る。看護師に聞くと中には手術を中止して退院する人もいるという。当方には頼りになる相談相手がいる。そのアドバイスも聞きながら結局は自ら決断した。
検査技師がやってきて体のあちこちにマーカーで印を付けていく。電極を貼る位置らしい。手術中に神経にダメージを与えていないか調べるためらしい。
麻酔のドクターもやってくる。
手術室の看護婦が段取りを説明してくれる。若い可愛い人だった。
いよいよその日が来た。応援団が3人。東京から2人、秋田から1人。
朝10時半、手術室へ徒歩で行く。予定では11時から始まり3時15分で終わる。
手術室のベッドに横になると。看護婦が二言三言囁きかける。聞いているうちに意識が遠のいていった。
目覚めると周りに大勢の人がいる。腕をあげろとか足を上げてみろとか言われ、言われた行動をとる。内心ホッとした。ちゃんと動く。麻痺はしていない。この時が一番嬉しかった。
応援団の話では、3時15分に終わるはずが、なかなか終わらないので心配したとのことだ。病室に戻ってきたのは6時前だそうだ。それは心配する。実は、麻酔がなかなか覚めなかったらしい。
手術室に入った直後、電話が来たそうだ。「背中のイボを切除してもいいか」と。私が長年かかって大事に育ててきた可愛いおいぼちゃん、誰かが了解したらいい。
手術後
手術跡は、首の後ろが15センチ弱、背中が15センチとのことだ。自分ではその様子を見ることができない。
体のあちこちからチューブが出ている。酸素マスクが顔の半分を覆う。柔らかい素材だった。父が亡くなる直前やはり酸素マスクを装着したが、硬質のプラスチックだったから痛くて嫌がった。ふと、このタイプなら楽だったろうにと思った。
体を仰向けにしたまま寝る。枕はバスタオルを八つ折りにしたもの。頭の両サイドに砂嚢が置かれる。これで頭を固定する。やがて肩が凝ってきた。痛い。仰向けのままでは疲れる。左右に体位を変更したい。看護師を呼んで頭を動かさないように体全体の向きを変える。大変な作業だと思うが看護師は何度もこちらの希望に応じてくれた。のどが渇くが水は飲ませてもらえない。冷たい水を脱脂綿に含んで口の中を洗ってくれる。そして水分を吐き出させる。こんな作業を一晩中やってくれた。
尿はチューブで排出する。これがまったく違和感がない。尿が出ているのか出ていないのかわからない。これほど楽な排尿はないと思った。寝たきりになってもおしっこで困ることはないなと思った。チューブを外す場合、かなり痛いと聞いたが、私の場合はスムーズで痛みは感じなかった。最初の排尿も痛みは感じなかった。
顔の左端に大きなテープが貼られている。何かと聞くと、ホッチキスを抜いた後に出血したので貼ったという。左右のもみあげの上部にかさぶたがある。これも何かを射した痕だという。俺の頭は何じゃと思った。
看護
この手術は2度と受けたくないが入院なら何度でもしたい。関係者が実に親切で優しかった。特に看護師の皆さんは我が儘な患者を受け入れ、笑顔で丁寧に対応してくれた。術後、体のあちこちが痛い時に、二人の看護婦がやってきて、体を移動するのを手伝ってくれたが、「こんな時でも体を動かすのがうまい」とか上手におべんちゃらを言いながらその気にさせる。何を頼んでも嫌な顔をせずに聞いてくれた。何度でも入院したい病院だ。
人間模様
その女性を初めて見た時は、モデルかタレントがお忍びで入院しているのかと思った。身長が170センチ近く色白、漆黒の髪を腰の辺りまで垂らしている。挨拶をすると優しい声で応じてくれる。結局どのような人か、氏素性がわからぬまま退院してしまった。私は密かに謎の美少女と名付けていた。
うるさい患者もいた。大きな声で笑い話す。ひっきりなしと言うわけではなかったからやがて慣れたけれど、場所をわきまえて欲しいと思った。ここは病院なのだ。整形外科の病棟だから、手術が終われば傷が癒えるのを待つだけ。それも日を追うに従って良くなっていく。内臓疾患の治療を受けている患者とは大違いだろう。摂食にほとんど支障は無い。痛みが和らいでいけばもうほとんど健康体。大きな声も笑い声も出てくる。手術直後で具合の悪い人もいる、静かな環境で入院生活を過ごしたい人もいる。もう少し他人のことに配慮するデリカシーを持って欲しいと思った。
退院
マイカーを持たない私は病院からバスと電車で帰宅した。
そろばん道路をバスで45分、最寄りのJR駅まで乗った。車体の揺れが傷跡を刺激する。背中の真ん中を15センチも切ったから、そこが背もたれに当たって、上下に振動すると苦しくなる。駅について、とりあえず昼食をとろうと食堂に入ったが、早く横になりたい。早々に切り上げて駅の待合室に入った。しかし、硬い座席の背もたれではやはり傷跡が痛い。結局、前の席の背もたれに両腕をついてうつむいて背中を伸ばした。
幸い、特急に乗れたので、柔らかい席に背中を預け、時々体を右や左に傾けて秋田駅までしのいだ。タクシーで帰宅。ソファーに倒れ込んだ。
現在
退院後、自宅で養生している。
体のあちこちが痛くて、寝たり起きたりの毎日だ。
手術直後は、肩が凝って痛かった。今は、傷跡が引きつられるような不快感。上半身全体の筋肉がその時々の姿勢によって場所を変えて痛い。半日も外出すると疲労が蓄積して直ぐにでも横になりたくなる。まっすぐに歩くのが難しい。そんなわけで今月いっぱいはボランティアなどの社会活動を差し控えている。
右手の掌の痺れは術前と同じ。右足のもつれはやや改善して、突っかかることも減少した。ただ、得られたのは安心感だ。以前は転倒した拍子に一気に全身麻痺になる可能性が極めて高かったが、現在はその確率が減少した。
この先、どんな経緯を辿るのか、誰にもわからない。多少の痺れやもたつきは受け入れるしかない。このような状況で少しでも楽しい人生を歩めればいい。
経緯
この病気の診断は、今からおよそ30年前に下っていた。
たまたまひどい頭痛がして病院に行き、診察してもらうと「後縦靱帯骨化症」と告げられた。
頭痛は、いわゆる緊張性頭痛で、薬を飲むと軽快したが、問題は骨化症の方だ。このまま症状が現れずに生涯を終わることもあるが、顕在化すると痺れ、果ては四肢の麻痺に至ると言うことだった。その頃まだそれらの症状が出ていなかったので、経過観察でたまに検査をすることにして最近まで来た。たまに腰や肩が痛むことがあったが、対症療法で切り抜けてきた。
それが数ヶ月前から、首をそらせたり、腰を曲げたりしたのをきっかけに、体の一部が突然熱くなりやがて右手右足が痺れるようになった。更に右足がもつれて良くつまずく。神経内科、耳鼻科、整形外科、脳外科とおよそ考えられる診療科をめぐってみたが、はっきりした診断はなく、自分では加齢に伴う神経系の異常だろうと思った。
しかし、ふと自分は後縦靱帯骨化症という爆弾を抱えているはずと思い至った。それならば、経験豊富な医師の診断が必要だろうと思い、いろいろな経緯を経てふさわしい医師を紹介してもらった。
5月30日。レントゲンなどの検査の結果、手術をしなければならないほどの状態に至っていると告げられた。その結果、うまくいって現状維持、そうでなければ四肢麻痺とのことだった。このまま何もしなければ当然のことながら進行する。しびれから麻痺に至るかも知れない。
もはや選択肢はない。即、手術をすることにした。入院日は6月13日に決定。
準備
入院までの間、やることがたくさんあった。
この病気は厚生労働省の指定難病なので、手続きを踏めば医療費が極めて低額になる。提出する書類をあれこれ揃えて保健所に持っていくと、これとこれが足りないと言われ、暑い中を再び市役所に行く。やっと申請がが終わると、「認定されて証明書が交付されるまで3ヶ月くらいかかる」とのことだった。ただし、申請した日に遡って適用になるので以後の治療費はカバーされるとのことだった。
その他にも高額医療費の限度額適用認定証の交付申請など。
入院中に使用するスニーカー等の履き物、日常雑貨などの購入。
入院日までに、京都旅行をこなし、(http://blog.honyomi.jp/201706/article_1.html)その日を待った。
入院・検査
その病院は山の中腹にあった。
入院すると直ぐに検査が始まった。
血液、CT、レントゲン、MRI、そして脊髄造影。脊髄造影を除くとこれまでも経験済みだったから、それほどのストレスもなくたんたんと進んだ。
しかし、脊髄造影は怖かった。脊柱管内に注射で造影剤を注入する検査だ。相当痛いと聞いた。危険があるとも。当日、点滴をしながら検査室までストレッチャーで運ばれた。検査台に移り背中を丸めて両膝を抱える。「チクッとしますよ」と言われて麻酔の注射。そして造影剤の注入。あまり痛くない。麻酔も、えっ、これで終わりと思うくらいあっけなく終わった。歯医者の麻酔よりもずっと軽かった。案ずるよりも産むが易とはこのことだと思った。後は様々な姿勢をとっていろいろな角度からレントゲン撮影。これらで全ての検査が終わった。
給食
入院当初は普通食だったが、高血圧のため降圧剤が処方されていることがわかると高血圧食になった。塩分が少なくて味気ない。いろいろな出汁を使ってそれを補っているからそれほど辛くはなかったが、やっぱり塩分は最高の調味料だと思った。
パン食を希望したら、朝食に数回出て、うち一回は食パン6枚切りが2枚も付いて驚いたものだ。しかし、パン食は高血圧には適さないらしく、やがて丼飯に変わった。
手術の直後はおかゆ食で、直ぐに普通の御飯に変わったが、高さのある厚いカラーが首をぐるりと撒いた状態では、箸が容易に使えない。ぽろぽろとこぼし、食べ物がカラーと首の間に落ちていく。再びおかゆ食に戻してもらっておかずも細かく切ってもらった。これをスプーンで口に運ぶ。
入院中一番多いおかずは鯖の塩焼きだった。私の好物だから異存は無かった。
暖かい物は暖かく、冷たい物は冷たいままで提供され、病院食も改善されていると思った。味や見た目はいわゆる病院食。
血圧はあっという間に下がり、体重も6キロ近く下がった。効果は抜群だった。
リハビリ・温泉
手術前からリハビリが始まった。500グラムから始まってやがて1キロのウエイトを装着して足の上げ下ろしや足踏み、自転車漕ぎ。体全体のマッサージなどで体は軽くなった。
この病院には天然温泉が引き込まれている。病院の6階にある浴室からは周囲の山々が眺められる。術前、術後に入ったが特に術後の入浴は気持ちが良かった。
一時帰宅
2回、一時帰宅が許された。
入院中御法度のアルコールを補給。
少しばかり、町の雰囲気を味わった。
手術
予定日の数日前にドクターから説明があった。写真を見せられながら、病巣についての説明。やはり、うまくいって現状並み、最悪の場合には四肢が麻痺するという。翌朝まで考えて、承諾書にサインするようにと言うことだった。不安が募る。看護師に聞くと中には手術を中止して退院する人もいるという。当方には頼りになる相談相手がいる。そのアドバイスも聞きながら結局は自ら決断した。
検査技師がやってきて体のあちこちにマーカーで印を付けていく。電極を貼る位置らしい。手術中に神経にダメージを与えていないか調べるためらしい。
麻酔のドクターもやってくる。
手術室の看護婦が段取りを説明してくれる。若い可愛い人だった。
いよいよその日が来た。応援団が3人。東京から2人、秋田から1人。
朝10時半、手術室へ徒歩で行く。予定では11時から始まり3時15分で終わる。
手術室のベッドに横になると。看護婦が二言三言囁きかける。聞いているうちに意識が遠のいていった。
目覚めると周りに大勢の人がいる。腕をあげろとか足を上げてみろとか言われ、言われた行動をとる。内心ホッとした。ちゃんと動く。麻痺はしていない。この時が一番嬉しかった。
応援団の話では、3時15分に終わるはずが、なかなか終わらないので心配したとのことだ。病室に戻ってきたのは6時前だそうだ。それは心配する。実は、麻酔がなかなか覚めなかったらしい。
手術室に入った直後、電話が来たそうだ。「背中のイボを切除してもいいか」と。私が長年かかって大事に育ててきた可愛いおいぼちゃん、誰かが了解したらいい。
手術後
手術跡は、首の後ろが15センチ弱、背中が15センチとのことだ。自分ではその様子を見ることができない。
体のあちこちからチューブが出ている。酸素マスクが顔の半分を覆う。柔らかい素材だった。父が亡くなる直前やはり酸素マスクを装着したが、硬質のプラスチックだったから痛くて嫌がった。ふと、このタイプなら楽だったろうにと思った。
体を仰向けにしたまま寝る。枕はバスタオルを八つ折りにしたもの。頭の両サイドに砂嚢が置かれる。これで頭を固定する。やがて肩が凝ってきた。痛い。仰向けのままでは疲れる。左右に体位を変更したい。看護師を呼んで頭を動かさないように体全体の向きを変える。大変な作業だと思うが看護師は何度もこちらの希望に応じてくれた。のどが渇くが水は飲ませてもらえない。冷たい水を脱脂綿に含んで口の中を洗ってくれる。そして水分を吐き出させる。こんな作業を一晩中やってくれた。
尿はチューブで排出する。これがまったく違和感がない。尿が出ているのか出ていないのかわからない。これほど楽な排尿はないと思った。寝たきりになってもおしっこで困ることはないなと思った。チューブを外す場合、かなり痛いと聞いたが、私の場合はスムーズで痛みは感じなかった。最初の排尿も痛みは感じなかった。
顔の左端に大きなテープが貼られている。何かと聞くと、ホッチキスを抜いた後に出血したので貼ったという。左右のもみあげの上部にかさぶたがある。これも何かを射した痕だという。俺の頭は何じゃと思った。
看護
この手術は2度と受けたくないが入院なら何度でもしたい。関係者が実に親切で優しかった。特に看護師の皆さんは我が儘な患者を受け入れ、笑顔で丁寧に対応してくれた。術後、体のあちこちが痛い時に、二人の看護婦がやってきて、体を移動するのを手伝ってくれたが、「こんな時でも体を動かすのがうまい」とか上手におべんちゃらを言いながらその気にさせる。何を頼んでも嫌な顔をせずに聞いてくれた。何度でも入院したい病院だ。
人間模様
その女性を初めて見た時は、モデルかタレントがお忍びで入院しているのかと思った。身長が170センチ近く色白、漆黒の髪を腰の辺りまで垂らしている。挨拶をすると優しい声で応じてくれる。結局どのような人か、氏素性がわからぬまま退院してしまった。私は密かに謎の美少女と名付けていた。
うるさい患者もいた。大きな声で笑い話す。ひっきりなしと言うわけではなかったからやがて慣れたけれど、場所をわきまえて欲しいと思った。ここは病院なのだ。整形外科の病棟だから、手術が終われば傷が癒えるのを待つだけ。それも日を追うに従って良くなっていく。内臓疾患の治療を受けている患者とは大違いだろう。摂食にほとんど支障は無い。痛みが和らいでいけばもうほとんど健康体。大きな声も笑い声も出てくる。手術直後で具合の悪い人もいる、静かな環境で入院生活を過ごしたい人もいる。もう少し他人のことに配慮するデリカシーを持って欲しいと思った。
退院
マイカーを持たない私は病院からバスと電車で帰宅した。
そろばん道路をバスで45分、最寄りのJR駅まで乗った。車体の揺れが傷跡を刺激する。背中の真ん中を15センチも切ったから、そこが背もたれに当たって、上下に振動すると苦しくなる。駅について、とりあえず昼食をとろうと食堂に入ったが、早く横になりたい。早々に切り上げて駅の待合室に入った。しかし、硬い座席の背もたれではやはり傷跡が痛い。結局、前の席の背もたれに両腕をついてうつむいて背中を伸ばした。
幸い、特急に乗れたので、柔らかい席に背中を預け、時々体を右や左に傾けて秋田駅までしのいだ。タクシーで帰宅。ソファーに倒れ込んだ。
現在
退院後、自宅で養生している。
体のあちこちが痛くて、寝たり起きたりの毎日だ。
手術直後は、肩が凝って痛かった。今は、傷跡が引きつられるような不快感。上半身全体の筋肉がその時々の姿勢によって場所を変えて痛い。半日も外出すると疲労が蓄積して直ぐにでも横になりたくなる。まっすぐに歩くのが難しい。そんなわけで今月いっぱいはボランティアなどの社会活動を差し控えている。
右手の掌の痺れは術前と同じ。右足のもつれはやや改善して、突っかかることも減少した。ただ、得られたのは安心感だ。以前は転倒した拍子に一気に全身麻痺になる可能性が極めて高かったが、現在はその確率が減少した。
この先、どんな経緯を辿るのか、誰にもわからない。多少の痺れやもたつきは受け入れるしかない。このような状況で少しでも楽しい人生を歩めればいい。
この記事へのコメント
難しいご病気にかかられていたのですね。
私自身も本荘の病院へ行ったりして、難しい病はその人自身しかわからない辛いことがあります。
どうかガッツで頑張って下さい。
意外とこの病気の患者が身近にいます。中には怖くて手術を受けるのを躊躇している人もいます。
確かにその人でなければわからない辛いことがたくさんあります。
お見舞いありがとうございます。
御家族もご心配だったでしょうね。
術後の早いご回復をお祈りしています。
ファイト!
一日も早いご回復をお祈りしています。
ファイト!頑張って❗
それにしても非常に微妙な手術を受けられたのですね。決断するまでに相当迷われたのではないでしょうか。
入院中の様子は私にも手に取るように分かります。
もう26~7年も前のことになりますが、大腸がんと、其処から転移した肝臓がんの大手術を受けて、ほぼ1年間、ベッドの上で自分自身と戦ったことがありますので・・・・。
外来の看護婦(師)さんと、病棟の看護婦さんは全く違うということも、そのときに理解しました。
病棟の看護婦さんは、皆さん若くて未婚で、やさしくて、親切で、丁寧で、決して厭な顔をしないで・・・・患者さんに寄り添ってくれますね。
私は主治医よりも看護婦さん達に助けられて退院できたと思っています。
退院した後も予後が大事です。急に激しい動きをしないように、用心しながら本復を目差して下さい。
大変だったのですね。
心配や不安、苦痛や痛み、ご本人でなければ分からないことですね。
その中で準備に京都旅行が入っていたり、
まだまだ養生中の今、ボランティアなどの社会活動を差し控えるのが今月いっぱいと考えていたり、
言葉が思いつかないのですが、すごいですね。
「今の状況を受け入れ、少しでも楽しい人生を歩めればいい。」
私もこうありたいと思っていることです。
でも私はなかなか前向きだけではいられません。
gakkoさんも時々は弱音を吐いてくださいね。
激励をありがとうございます。
リハビリをがんばります。
あと少し人生を楽しみたいので。
「こうじゅうじんたいこつ(っ)かしょう」と読みます。手術の詳しい説明を受けた時は、覚悟していたものの、悩みました。幸いアドバイザーがいたので決断できました。
大変な治療を受けられたのですね。私も今回の入院で看護師の皆さんの素晴らしい看護に勇気づけられ助けられました。本当にありがたいと思っています。
嬉しい助言をありがとうございます。無理しないでがんばっていきます。
お見舞いありがとうございます。
世の中にはまだまだ大変な思いをしている人たちが大勢おられます。私はまだいい方だと思います。
多少の不自由はありますが、負けてはおられません。いたわりながら余生を全うしたいと思っています。
ここだけの話、実は実生活では結構弱音をはいているのです。
ありがとうございます。
今は寝たり起きたり、時々外出して社会復帰の準備を行っています。でも、首筋が引きつられ、体のあちこちが痛みます。時間の経過とともに慣れていくのだろうと思っています。
無理をせずにがんばっていきます。
闘病生活、大変でしたね。
本人でないとわからない苦しみも経験されたことと思います。
どうぞお身体ご自愛下さい。
ありがとうございます。
どんな病気も大変だと思います。これからは病気と付き合いながら生きていきます。
まだ子供達も小学生で絶望の毎日です
このブログで元気をいただき頑張ります!