旅の終わりに

叔父の最初の記憶は、窓の外で大きな手を広げ笑顔一杯で近づいてくる姿だ。

そこは函館だったか小樽だったか。たぶん前者だったろう。
昭和30年代、秋田から小樽までの旅は難行苦行だった。
まして幼い子二人を連れて長旅をする母にとって、気の置けない弟に迎えに来てもらうことはとてつもなく嬉しいことだったに違いない。

次の記憶は、小樽の母の実家で広い背中を見せて朝食に何かの貝のむき身を食べている姿だ。

秋田と北海道と言うこともあってあまり頻繁に会うことはなかったが、それでも北海道に渡ってたまに電話をすると、大きな優しい声で応じてくれた。

私の父の葬式にも出てくれて司会者が故人の名前を間違ったことに憤慨していた。

海釣りが趣味で、暮れになると自分で釣ったカレイの干物、イカの沖漬けの他、手製のハタハタと鮭の飯寿司、ビールも使って漬けたタクアン、おおなごの燻製などを送ってくれた。
数年前に連れ合いに先立たれ悲しみの中にあっても一人暮らしを貫いた。

そして、直近は今年一月見舞いに訪れた病院で私の拙い言葉に微笑みながら応えてくれた姿だった。

その叔父が亡くなった。

昨年12月、腸閉塞で壊死した小腸のほとんどと大腸の半分を摘出し、その後苦しい闘病生活を送り、22日力尽きた。
医者から治療のあらましを聞いても動揺することなく「今更じたばたしたって始まらない」と泰然自若としていたという。

23日、札幌に向かい、仮通夜、通夜、本葬、法要を終えて今日午後帰ってきた。

故人の直ぐ下の叔父が、若い喪主に的確なアドバイスをおくり、仏事全般に目を光らせ、自ら車での送迎や留守番など雑事も引き受け、更に接待に気を配っていた。それを義叔母もかいがいしく手伝っていた。

北海道の葬儀はこれまでも何度も立ち会っているから、もう驚くことはないけれど、それでも故人の棺の前で記念写真を撮り、火葬の後の骨上げでお骨を太い棒で砕きながら詰めていくことなど今でもなじめないことがある。それを言えば、秋田では荼毘の後で葬儀を営むけれど、これは全国的に見ればきわめて少数派、その土地土地の葬儀も文化なのだと思う。

通夜では立派な儀式の後で僧侶の説教、最後に喪主挨拶があるがこれは葬儀の司会者がしゃべってくれる。本葬でも同じ。喪主は最後に深々と一礼すれば良い。これは理にかなっている。遺族は悲しみの中必死に耐えている。疲労も極限近くなっていて挨拶の言葉など考える暇が無い。これを代わってくれる人がいるのはそれだけでも随分喪主の心理的負担は軽減されるのだ。以前の葬儀では葬儀委員長の町内会長が挨拶してくれるところもあった。

法要の後の挨拶だけは、相手が身内と近親者だけのこともあって喪主が自ら話した。
その最後の一言、「父は最後まで強い人でした」と。
人生の旅の終わりに叔父は大いなる物を遺して異界へと発っていった。

旅の終わりに
未だに人の道をさまよい歩きながら、
軽挙妄動、浅はかな言動と矛盾だらけの行動、こんな私にいったい何が残せるだろうか。故人と同じ状況にあったら、私はベッドで一日中泣き崩れ涙の中に事切れることだろう。
そんな私にいったい何が残せるのだろう。

もうその時が刻一刻近づいているというのに
旅の終わり

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